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2008年10月

2008年10月31日 (金)

10月に読んだ本(物語)ーーージュディス・マクノート

○ジュディス・マクノート「君に鼓動をかさねて」(上)(MIRA文庫)
○ジュディス・マクノート「君に鼓動をかさねて」(下)

 「パラダイスを君に」「いつの日か君と」のスピンオフ。ヒーローが友達同士。

 ヒロインのケイトは、亡くした父からレストラン経営を引き継いだ女性。
 ヒーローのミッチェルは、孤独な過去を持つハンサムなお金持ち。
 出会い→燃え上がる恋→誤解とすれ違い。
 定番・王道のロマンス小説。

 それにしても、この二人のすれ違いって、ヒーローがとんでもないお金持ちだからこそ無事に解決したけれど・・・・・・・・・お金って素晴らしい!!!!ということになるのだろうか^^;

○パトリシア・ブリッグズ「裏切りの月に抱かれて」(早川FT文庫)

 原題「MOON CALLED」
 ファンタジー「マーセデス・トンプソン」シリーズの1作目。

 あとがきを読む限りでは、三角関係決着は3作目なんだそうだけど。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 どっちでもいいや^^;

○図書館で借りて読んだ本
●購入して読んだ本
◎図書館で借りた後に購入手続きした本

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2008年10月29日 (水)

「傾く首」観劇メモ

 映像とか台本で反芻したいなあ。荻田浩一氏の紡ぎ出す台詞が好きなので。
 日曜ソワレ観劇時にはなかったアンケート用紙があったので、とりあえずそんなことを書いてきてみた。
 ちなみにアンケート用紙はあったけれど、アンケート回収ボックスの無かった受付ロビー^^; 持ってた新聞紙で折箱作ってあげたくなっちゃったぞ(笑)

 ペラペラの安い紙で字だけでいいから、荻田浩一脚本集みたいなものをどっかで出してくれないかしら。大喜びして買うんですけれど。

 とりあえず、観劇感想徒然メモ。
 言うまでもないけれど、勝手な感想メモです。報告メモじゃありません。このブログに≪報告≫を期待してはいけません^^;

○中途半端な幽霊

 彼の死を嘆く人の言葉はあくまでも彼にとってはBGM。
 絵にこだわる彼の姿は幸せそうだ。死によってはじめて、狂いきれない中途半端さから解き放たれたかのよう。ズボが、描け、狂えとモディに命じた言葉は、モディの死によって完全な形になったわけだ・・・・・・・。たまに面白そうに人に視線を向けるが、あくまでも死後のモディの関心の対象は絵だ。絵を完成させていくことだ。

 と思いきや、やはり現実の人に対しても真面目な視線を向けたりもする。ジャンヌが、ズボロウフスキーに対して、絵を全部持っていってほしい、自分は興味がないから、と言い放つ時に、彼は現実のジャンヌに対して鋭い視線を向ける。

○母性を持たない女、母性は虚構にすぎないと考える男

 男性の創作者というのは母という存在に対して美しい理想化をすることが多いけれど、荻田浩一氏はデビューした当時から、母であるよりも前に女であるといった女を描くことにこだわりがありそうだ。産んだ子を無条件に愛す母性なんてものを彼は一切信じていない。
 子は子、別個の存在。それよりも何よりも、自分の女としての寂しさや哀しさが大事。
 彼はそんな女を描き続けることにより、そうした女への怒りや諦観を示し続け、そして同時に、そうとしか生きられない女の在り様が切なくいとおしく思い、二つの極の間で揺れているんだろうか。

 というわけで、ジャンヌをああいった描き方をするのは彼にとっては必然だったんだろう。
 
 対比される存在であるカカーシュカの描き方も冷酷だ。モディに対する理解者としての存在。そんなふうに物語ははじまったかに見えた。が、物語がすすむにつれてやがて、彼女もまた、強欲な女の部分を見せ始める。理解者・抱擁しようとする存在であるように自分を位置付けることにより、形の上では妻であるジャンヌに対して優越者であろうとする。面と向かってモディに「かわいそう」と繰り返して言い放つ様は、エセ母性の極致といったグロテスクささえ醸し出してしまう・・・・・・・・・・・。でも、そうした醜さをも人間らしいものとして、モディは、そして、荻田氏は、愛しているんだよね・・・・・・・。

○白の中にひきこもる人

 モディがユトリロを強いと表現するけれど、ユトリロ同様よく理解できなかった^^;
 ユトリロ本人が自虐するように、彼は強くはない人に見えるけれど。

 現実の汚濁をそのままのみこむことは出来ずに汚濁を白で封じ込める人。
 でも、汚濁を見てないわけじゃない。目をそらしているわけではない。
 見ているんだな。酔いつぶれているかのようでいて、見ていたりするんだな。雨の中、モディとカカーシュカが男と女として向かい合っている時、酔いつぶれているはずのユトリロは彼らの言葉を聞き、彼らの行為に対して目を開いていたりする。目を向けながらも別のものをみているのかもしれないけれど。

○幼児の残虐

 一回目の観劇時に、豹変に惑わされてハイム・スーチンの人物像把握を見誤ったかも。
 前半の彼の印象を核に彼の人物像を把握した方が良かったかな、というのが二度目の感想。前半の彼。モディの死を嘆く人々の中で見せる憔悴感。それでもなお、第一の関心の対象はジャンヌ。ジャンヌに対して見せる激しい執着。恋着といってもよいかもしれない、強い視線。

 ある意味、普通の男の子なんだと思った。

 本当はさびしくて仕方がないのに、寂しいという言葉で自分の心情を表現することを自分に対して許せない、プライドが高く頑固な男の子。寂しくてたまらないから自分の存在を受け入れてくれる人達と共にあるくせに、うちとける方法を知らない。プライドのかたまりだから、自分の寂しさを認められず、馬鹿なこいつらを利用してやっているという方向の思考で、彼らと共にある自分を自分に対して正当化してみたりする。そして、彼らと深く接しようと思ったら、傷つけるというやり方以外は何も知らない。

 とはいっても、傷つけたい、大いに傷つけてやりたいという感情も本当のもので。

 小さな子が蟻を踏みつけたり、蜻蛉の羽をむしりとったりする様に似ている。
 バタバタと苦しむ小動物を痛めつける幼児は、その小動物が嫌いだから苦しむ様を楽しむのではない。逆。その小動物を好きだからこそ、苦しみながら生を終えていく様をつぶさに見つめ続け、好きなものを味わい尽くしたい。ある意味、愛しているからこそ。傷つけ踏みつけて、その相手が苦しむ様に死と生を同時に感じながら、そこに快楽と自虐を見出す男の子。

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2008年10月26日 (日)

「傾く首」雑感

 「傾く首モディリアーニの折れた絵筆~」という作品は、モディリアーニという画家の人生を描いたというよりは、荻田浩一氏が創作者としての自分自身の逡巡をモディリアーニという人を使って描いた作品だと思った。

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 宝塚歌劇で「パッサージュ」や「バビロン」といったショーを見た時、オギーの頭の中をのぞかせてほしい!と熱烈に思った。
 美しい地獄。美しい闇。猥雑と静謐が同居する世界。
 色彩にこだわりがあり、音楽にこだわりがあり、徹底的に美しさへのこだわりがある。 彼の頭の中には、常人と異なる異世界が沢山詰まっているに違いない。

 が、舞台でその美しさを完成させていくのは、彼の脳内で自由に動かされる操り人形ではなく、彼とは別個に存在する人間達だ。役者でありスタッフである人間達だ。

 彼はその人間達をとても愛していると思う。様々な個性を持つ一人一人の違った個性を愛でて、その個性を生かしたあてがきをしていく。そのあてがきっぷりには、彼の人間への愛をはっきりと感じる。

 それでいて同時に、彼は他の人間とのふれあいを疎ましいと思って忌避している部分もあるんだろうなあとも感じる。他の人間を愛しているのと同時に、他の人間に対する妙な冷たさ、妙な壁。そんなものを持っている。あれほどまでに美しい世界を抱いている人ならば、美しい世界の中に耽溺だけしていたい時だって当然あるだろうし、人を拒絶したくなることだって当然あるだろうな。そして、その拒絶感は時たま彼の作品世界にも垣間見える。≪あてがき≫を捨て、自分の世界を構成する単なるパーツとして役者を使う。役者の個性なんて考えもせずに自分の世界で突っ走る創作者はいくらでもいるけれど、オギーの場合にはそれとは異なる色を感じる。ただのパーツとして役者を使っている時、作品世界の作り手である彼は妙に冷酷で人に対して投げやりになっているような何かを見せる。
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 なんでオギーは宝塚歌劇団をやめることにしたんだろうと不思議に思っていたら、この作品。人と深くかかわる道を選択した芸術家の逡巡が描かれていた。

 静物を描くことを選択していれば、人を疎ましく感じる時に人に対して意識を閉ざしていることができる・・・・・かもしれない。
 風景を描くことを選択していれば、その風景の美しさの中に耽溺しながら人に対して意識を閉ざしていることができる・・・・・かもしれない。だから劇中のユトリロは、見るのを避けたい事柄、目をそむけたい事柄を白で封じ込め、苦しい中でも美しい世界のみを描き続けていられる。
 けれど、モディリアーニは、人を描くということを選択してしまった。人の姿を描きながらも、写真のような物を描くのではなく、あくまでも自己内世界を表現する一手段として人をデフォルメする。その過程で、彼は常に、人を見つめなければならないし、人を見つめる自分自身をも見つめなければならない。人を愛しているからこそできる作業ではあるけれど、見つめる作業は、愛だけではなく疎ましさのようなマイナスの感情をも生み出し、それすらをもまた見つめ続けないといけない。

 芸術家達の世界。
 狂った人がいっぱいの世界。

 モディリアーニは狂った彼らを愛している。しかし同時に、狂った彼らを忌避している。愛してはいるけれど、彼にとっての彼らはあくまでも彼の視線の対象であり、見られるものだ。愛してはいるけれど、いつもそばにはいたくない。拒絶したい、距離を置きたい。彼が耽溺してみたいけれど耽溺しきれない狂気の世界にあっさりと踏み込める彼らに。人を描くという作業を重ねることには客観性も必要であるから、彼自身は彼らのようにはあっさりと狂気の世界に踏み込めない。踏み込みきれない自分であることにコンプレックスを感じ、苛立ち、怒り、逃避する。それでいて、狂気とは別の穏やかな世界をも望んでみたりもする。が、平穏もまた彼とは縁のないもので、結局彼は中途半端な位置に居続ける。

 中途半端に生き続け、中途半端なまま死に、霊になってすら中途半端。愛しているからこそ見つめ続ける。けれど、愛と同時に疎ましさやコンプレックス等のマイナス感情も強く持ち続けているから、生きている人々に向けるその眼差しは優しくはない。

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2008年10月21日 (火)

宝塚花組「銀ちゃんの恋」雑感

 出演者が熱く、客席も熱く、楽しい公演でした。
 つか芝居も石田昌也演出作品も苦手なんですけれど、この作品は結構好き。

 月組の初演も、楽しみました。当時の私は妊娠中で、大きなお腹を抱えて千駄ヶ谷駅から青年館まで歩くのがそろそろしんどくて。ヤスが小夏を蹴飛して「お腹蹴らないでよ」と言われるシーンを見るのが実に辛かったなあ(苦笑)
 演技派同士の熱いバトルを見るのが大好きなので、久世星佳&風花舞&汐風幸トリオの主演舞台はみごたえのあるものだった。のんちゃんは本来は銀ちゃん役者ではないんだろうけれど、演技力で華あるスターになっていて、相手役との細かいやりとりも巧い人だった。
 この公演の直前に「CAN-CAN」のヒロインのピスタッシュだったゆうこちゃんは、主役をぶっとばす勢いで押し出しが強かったのだけど、小夏のゆうこちゃんは相手と呼吸を合わせたすごくいいお芝居していたっけ。宝塚で演技派といわれる人達って、重厚なタイプのお芝居でそう呼ばれるケースが多いのだけど、のんちゃんも汐風幸ちゃんも絶妙な軽さのあるお芝居する人で、味わい深かったなあ。

 時がたつのがはやいもので。下級生だった大空祐飛くんが主演!

 いやあ、チラシの画像を見た瞬間、「これはいけるぜ」と思いましたよ(笑)
 ド派手な変な衣装がよく似合うこと。ド派手な変な演出の撮り方が似合うこと。
 クールな男ばかりがはまり役だったゆうひ君の新しい姿が見られるのかもしれない。もしかしたら、のんちゃんよりも持ち味的には銀ちゃんかもしれない。

 という期待は裏切られませんでした(笑)
 舞台姿が綺麗なゆうひ君が、あのゆうひ君が、あんなに弾けてる。
 のんちゃんの銀ちゃんは、男が惚れるタイプのちょっと渋みのある男だったけれど、ゆうひ君の銀ちゃんは、女がきゃいきゃい騒いじゃいたくなるような男だわ。

 小夏の野々すみ花ちゃんは期待に違わぬ好演。小夏という役には、「ガラスの仮面」で舞台あらしと呼ばれた北島マヤに与えられた人形役のような効果があるのかな。「舞姫」では一人で芝居しちゃっているように見えなくもなかったののすみが、お芝居相手の呼吸をしっかりうけとめていたのが印象的。

 そして、ヤスの華形みつる君。
 私、若手男役には興味ない人なので、この人のお芝居、意識して見たことなかったんですよ。「舞姫」の時に、ようやく視界に入ってきたかなあ、結構悪くないなあ、程度。(舞姫ではののすみの印象が強すぎて愛音・未涼の印象もとんじゃってるくらいだから、みつる君見るどころじゃなかったという、私の観方の問題が大きすぎるんですが)
 だから、キャスティング発表の時にはちょっとがっかりしていたのだけど。

 がっかりを完全に翻してくれたみつる君ブラボー!

 目が大きくてくりくりとしていて、可愛くて可愛くて。犬っころみたいにマゾヒスティックに銀ちゃんを慕っても、憧れの女優さんだった小夏をお下がりのようにもらうみじめな状況でも、なんだか可愛くて可愛くて、貧乏くさいどろっとした状況がふんわりと和らぐ可愛さなんだな。そして、可愛いだけじゃなくて・・・・・・・・・・・・お芝居巧い人だったんだ。ごめん、知らなかった。みつる君のヤスに泣かされました・・・・・・・・。

 カーテンコールでの拍手の大きさといったら。客席には同じこと考えた人がものすごく多かったのね。

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2008年10月17日 (金)

宝塚雪組「マリポーサの花」---ハリーの計算ミス?

 これ、もしかしたら私好みの作品だったかもしれないのになあ。

 とため息をついてしまった雪組東京公演「マリポーサの花」
 2階B席からの観劇。

 戦いで生きのびてしまったものの、なんのために生き続けたらいいのかわからないままの男二人。ネロとエスコバル。元は上官と部下だったが、今は互いをただ一人の友と思い、強い絆で結びついている。
 政治的には独立の体裁を保っているものの、経済的には合衆国の支配のもとにある時代。キューバ革命前のキューバをモデルとしているとおぼしき世界。

 そんな日々の中、ネロはセリアという女と出会う。
 集会での発言をきっかけに囚われたセリアの弟リナレスを救うということが、一つの生きる意志になっていく。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ヒロインであるはずのセリアの描かれ方がすべてを台無しにしてしまっているような気がした。
 
 セリアがなんでネロにひかれるのかわからない。そりゃ、ネロはいい男だ。弟を助けるために命をかけてくれることなんかもポイント高い。でも、彼女の人生ど真ん中にかかわってくるには、ネロって胡散臭すぎる。まあ、小さいきっかけで芽生えてしまうのが恋とか情とかいったものなのかもしれないけれど、舞台上のセリアという女は、知的でもなく愚か過ぎることもないいかにも普通の女にしか見えないので、情動としての恋という心の動きとしても納得させてくれないし・・・・・・・。

 そして。
 ネロがなんでセリアに惹かれるのかわからない。
 こちらの謎の方がさらに深刻だ。
 だって、ネロはしばしばエスコバルをただ一人の友と呼ぶ。ただ一人の友という言葉を繰り返し使うことで、現在の生への絶望と孤独感を何度も見せている。その孤独の生を根本的にかえてしまうような何かをセリアは見せただろうか。

 少なくとも私は全く納得できなかった。≪宝塚だから男と女の関係を前面に押し出さなきゃいけないのね≫としか結論づけられないくらい、納得いかなかった。

 ネロが女ゆえに生き方をかえるとしたら、何か強烈なアピールポイントがセリアにはなければいけなかったと思う。

 例えば、ネロが今までの人生の中で知らなかった、あるいは忘れ果てていたような無垢な部分を、セリアが見せていたりすれば、セリアの生を守りたいという衝動をきっちり納得させられていたのではないかと、陳腐な想像をしてみる。
 汚辱にまみれた人生をおくってきた女が一瞬垣間見せた無垢な部分だとか。
 あるいは、白い花を愛しながら閉ざされた狂気の世界で生きる少女だとか。

 舞台上のセリアというのは、美しいという以外の特色を特に感じられない、ごく普通の女。有産階級の女。対米従属の経済構造にささやかな抵抗を続ける男である父や、対米従属の社会をかえたいという若い願いをひそかに抱く弟と共に暮らしつつも、そうした世界観とは無縁に生きている女。魅力がよくわからないので、ネロの人生をかえ、それゆえエスコバルの運命までかえてしまうことになるというストーリーがぴんとこないのだ。

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2008年10月16日 (木)

宝塚雪組「ソロモンの指輪」雑感

 荻田浩一にとって宝塚ってなんだったんだろう。

 30分のショー「ソロモンの指輪」で展開されたのは、凄絶なまでに美しいオギーワールドだった。
 2階B席から、オペラグラスを使わず観劇。

 美しい闇。
 美しい地獄。
 美しい狂気。

 暗闇の中、金環食からコロナがあらわれはじまる指輪の世界。
 まわる盆に乗った巨大な指輪の中で静かに踊る極楽鳥たちが黒い衣装をゆらめかせる。ぞくぞくするような美しさがこれでもかこれでもかと迫ってくる。

 そして、色も流れも違うけれど、どこか「パッサージュ」の「硝子の空の記憶」を思い起こさせるような場面。
 息つく間のない勢いで凄絶な美しさに圧倒され続ける。圧倒され幻惑され、拍手をすることすら忘れ、気がつけばその怖ろしいまでの美しさにぼろぼろと涙してしまう。
 
 でも、そこにあるのは、「パッサージュ」や「バビロン」や「ドルチェ・ヴィータ」や「タランテラ!」などで見てきたオギーワールドとは何か違う。
 何が違うんだろう・・・・・・・・演じている生徒へのオギーの思いが感じられないという点かな。上記四作では、オギーは演じる人達の持ち味を彼なりにとらえ、その味を生かす形で彼ならではの世界をつくった。けれど、「ソロモンの指輪」は、まずオギーワールドありき。そのパーツとして≪宝塚スター≫として個性的すぎない無難な人がいさえすればよかった。水夏希、彩吹真央、音月桂といった人達の持ち味で世界を築いていくという方向は見えない。

 スターの持ち味無視で自分の脳内ワールド表現が優先の演出家は宝塚には何人もいるけれど。不可思議な美しさを持つ脳内ワールドと、日頃接する宝塚歌劇団員達への思いについて、オギーは絶妙なバランスをとる人だと信頼していたもんで、ショックも大きい。

 ≪これは何?宝塚的正統派ショー作りをこころがけましたと主張するがためのお試し作品?≫と感じて、その制作姿勢がはっきり見えなかった去年の花組公演「タキシード・ジャズ」もそうだったように思えてきた。「マラケシュ」ではオギーは明らかに、春野寿美礼というスターの持ち味を軸に世界を作り上げたのに、同じスターに対してのそうした姿勢を感じられなかったショー。青年館で「A-“R”ex」を見た時も、そういえば、オギーが瀬奈じゅんというスターに対するあてがきをしていないことに首をかしげた。

 ≪オギーのショーでとうこちゃんをお見送りできなくて寂しい≫と思っていたのだけど。
 そんな思いから解き放たれてしまった。
 「バビロン」や「ドルチェ・ヴィータ」や「凍てついた明日」の思い出を噛みしめているだけの方が良かったという事態が生じるくらいなら、≪オギーが作る安蘭けい主役のための作品≫を夢想しているだけの方が幸せでいられる。

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2008年10月15日 (水)

発表日翌日の心境

 驚愕もなく衝撃もなく、今まで充実していたなあという満足感やら幸福感を感じながら贔屓の宝塚スターの退団発表に接することが出来た。ありがたくて幸せなファン人生をおくらせてもらえたなあ、としみじみ思うわけですが。

 こんなのを見たかったなあ、実現しなくて残念だなあ、といった寂しさも勿論あったりもするわけです。

 安蘭けい&遠野あすかコンビで見てみたかったものの一つに、氷室冴子の原作による藤田和子の漫画「ライジング!」の中の劇中劇「黒い瞳にミモザを捧げ」がありました。

 宝塚歌劇団をモデルにした舞台漫画「ライジング!」には楽しい劇中劇が沢山あるんですよね。その中でも「黒い瞳にミモザを捧げ」は、作中であらすじの一部が示され、衝撃のラストとおぼしき場面の絵も示されていたのだけど、後半部分における主人公二人の心理描写は描かれていなかったのです。ラストで起きる出来事はわかった。でも、そのラストに至る前の男と女の間には、衝撃、慟哭、秘密を抱えながらも傷をなめ合う情愛等、様々なものがあったはず。

 今年6月に氷室冴子の訃報に接した時、
「あの『黒い瞳にミモザを捧げ』の構想ノートをもとに、藤田和子が前後篇で全80ページくらいで読み切り漫画を描くか、あるいは、どっかが舞台化してくれればいいのに。あの話の完成形をなんらかの形で見たい!」
と思いました。
 で、もしも今、宝塚の舞台にのっけるとしたら、父を殺した人物への復讐を夢見ながら安酒場で歌い続ける女ミモザには、遠野あすかちゃん以外は考えられないではないか、と思いました。
 となると、ミモザが出会う、アルメニアでの大虐殺からパリに逃れてきた男アルフォンスにはとうこちゃん。生への執着を失い、暗黒街に身を沈めて殺し屋になり果てた男。
 殺し屋!暗い過去を背負って生きる男!そしてこれは想像にすぎないけれど、思いもかけず出会ってしまった愛ゆえに大きな罪悪感に苦しむことになる男。うわーん、見たいよーーー!。
 二人が、暗く冷たく、熱く激しく、そんなふうに盛り上げてくれたりしたら、すごい舞台になったりするんではないか。
 演出家が荻田浩一氏だったりしたら、亡き氷室冴子氏が天国で満足してくれる舞台の仕上がりになったのではないか。このお話を書いてた時点で氷室冴子氏が思い描いていた演出家はおそらくは正塚晴彦氏なんだろうけれど。でも、ラストシーンを絶望と哀しみの場面として終わらせるんだとしたら、ハリーよりもオギーの世界の方が似合っていると思うのだ。

 演出家オギーが宝塚歌劇団をやめ、とうこちゃん退団も決まった。どのみち妄想以外の何物でもない妄想だったけれど、本当に完全なるかなわぬ夢になり果ててしまったわ・・・・・・・・。

 それにしても、そもそも、氷室冴子作品が全く宝塚の舞台にのっからなかったことには、いろいろ複雑な事情があったりしたのでしょうか?雑誌「歌劇」で、宝塚歌劇に関するシンポジウムでの氷室発言が紹介される等、歌劇団との関係は悪いというわけでもなさそうに見えたし、他のカンパニーでの舞台化やら他メディアへの原作提供を眺めていても原作者としての発言権を持ちたがるタイプでもなさそうに見えたのに。

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2008年10月14日 (火)

本日の心境

 娘と一緒に、映画「パコと魔法の絵本」を見に行き、ぼろぼろと泣いてしまいました。一人で行った方が良かったかも。明るくなった時に、娘に見られても大丈夫な顔にしとくためにはどうしたらよいかと、映画の最中に何度も考えてしまったから。上手に泣いたみたいで、泣いてたことはばれませんでしたが。

 なーんて状況で帰宅したら、宝塚歌劇団の公式サイトで「安蘭けい退団」の報が待っていました^^;

 ええと、まあ、次回星組公演のショーのタイトルを見た時点で、
「これが退団作品でないとしたら、退団させられなくなったような事情が宝塚歌劇団に生じたとみて間違いないだろうな。まあ、99.9%以上の可能性でそれはないだろう」
とか思ったので、びっくりはしませんでした。というか、以前、今秋の星組全国ツアーの演目と主演者名の発表を見た時の方が、驚いたもの。
「ええっ!? その公演、とうこちゃん退団後のものだと思いこんでいて、秋の星組ツアー公演観劇予定なんて、考えてもいなかったわよ??????? 10/5が退団日だと思いこんでいたぞ。違うの!?」
と仰天してたのでした。

 そういえば、10/5の「スカーレット・ピンパーネル」千秋楽のカーテンコールの挨拶の表情を見た時にもなんとなく思ったこと。まあ、私は主演公演での千秋楽の表情なんて「花吹雪・恋吹雪」と「巌流」のものしか見てないから比較できるだけの知識はないし、そもそもこういうことを後付けで言うことにもなんの意味もないだろうけれど。あのカーテンコールの表情に感じたのは、≪充実した舞台をつとめて満足感と共に終われた幸福感≫ではあったものの、今回の舞台の感慨のみにひたっているわけではなく、≪明日以降≫をはっきりと意識したような表情であるなあといったものだった。この時点で≪明日以降≫を意識しているとしたら、それは、今後の道をある程度見定めているからこそかもしれないなんてことを考えたりしていた。

 とりあえず、残り半年。
 残る舞台生活が充実したものでありますように。植田脚本ベルばらというこわーい物も控えてますが、珍脚本度の低いものでありますように。そして、私自身が、退団公演のチケットをちゃんと確保できますように、と願っております。まあ、私はファンクラブ等とは一切関連のない孤独な一ファンだし、娘の教育費をきっちり確保しておかねばならない貧乏人なので、前楽やら大楽やらを見られる可能性はほぼゼロだとは思うけれど、通常の公演日はなんとか普通に複数回見てお見送りしたいです。

 そして、こういうことを今書くと、純粋な普通のとうこファンの人からは怒られちゃいそうですが。

 自分がとてもとても好きになった男役スターさんっていつも、退団後の女優姿には全然興味持てないタイプの人だったりしたのだけど、とうこちゃんに関しては、女優姿にも大いに興味ありです。
 畠中洋さんとの共演で、何か世に対する志を持った男と女といった形で歌いまくるといったタイプのミュージカルを見たいなあとか願っているんですが、誰か実現したりしてくれないものでしょうか。この二人、声質とかお芝居の質が合うような気がするのだ・・・・・。

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2008年10月 8日 (水)

10月だから多分鬼も笑わない

 来年のスケジュール帳発売のシーズンですね。

 高橋書店から出ている物をずっと愛用してます。
 以前はA5判を使っていたのですが、ここ何年かはB5使用中。
 スカイステージの番組表をはるためにはA5だと小さすぎるというのがその理由です^^;情報は一か所におさめておかないとやらなければならないこともやりたいことも忘れてしまうので、仕事の予定も学校行事予定もテレビの予定も新刊発売日も図書館の本の返却日も、何もかもいっしょくたです。

 後ろの方のカレンダーの無いページには、クレジットカード使用予定表を作ってます。縦に月を書き、横にカード名。そして、引落予定項目と額を書き込んでおくんです。観劇が趣味だと引落が半年先予定なんてのがよくあるから。
 来年の引き落とし予定項目に、既に、AKURO、パラダイスプリンス、スーザンを探して、カラマーゾフの兄弟、夢の浮橋といったような書き込みが並びました。野田地図や宝塚版逆転裁判、花組なんかは発売これからだし、3月の新感線はファンクラブでとれればすぐに決済だし、1-3月の引き落とし予定は結構多そう(@_@。宝塚人事次第では2月か3月には宝塚大劇場に行く可能性もあるので、この時期の出費はすごいことになりそう。(可能性99.9%以上と覚悟してます^^;)

 スケジュール帳への記入をしながら把握。今年の観劇おさめは笹本玲奈コンサート、来年の観劇はじめはカラマーゾフの兄弟になる予定。それにしても、観劇以外の件で余裕がないので観劇断念した舞台がものすごく多いという気がしているのに(東宝再演物やらキムちゃん初青年館主演やらMMやらタイタニックやら)、12月4回、1月3回の観劇予定って何事なんでしょう・・・・・・・・。

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2008年10月 6日 (月)

「私生活-PRIVATE LIVES」雑感

 シアタークリエ前方上手ブロックにて「私生活」観劇。

 いろんな方で何度も上演されてきた舞台らしいけれど、私は見るのがはじめて。
 戯曲は図書館で借りてコピーしてたのだけど、結局は読まずに出かけました。
 客層は、年齢層が少し高めで男性比率も高めだったかな。

 楽しかった!
 エリオットの内野聖陽、アマンダの寺島しのぶ、シビルの中嶋朋子、ヴィクターの橋本じゅんと、芸達者な人達が揃い、見ごたえのある楽しいコメディ&バトル。
 エリオットとアマンダのとっくみあい最高。実にいきいきと楽しげにバトル芝居を繰り広げる二人。

 手をあげるという行動は正直いただけない部分ではあるのですが、≪激しく愛している=手が出るほど相手に対して激しい感情を持つ≫、というのは作者にとってそうであるだけでなくこちら側にとってもある意味共感できるものであるからこそ笑えるということなのか・・・・・・・・・・・・^^;;;

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15→16→15ともう一人

 シアタークリエに行った帰りにarusen新刊ゲット。(検索よけのためにローマ字表記にしてみました。)
 発売を知ったのは今朝、e-honからの新刊パトロールのメールによってでした。前の巻が出たのが一昨年なので、次の巻はあと3年以上は先だと思ってましたよ。早売りする店の近くに行く予定のある日でラッキー。

 うぎゃあああ、私のお気に入りちゃん退場・・・・・・・・・・・・・。もう1、2巻はねばってくれると思ってたのに。劇的な派手さのない退場が哀しく、かえって後にじわじわときそうです。

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2008年10月 5日 (日)

それは恋のような日々---宝塚星組「スカーレット・ピンパーネル」

○観劇前

 オルツィの原作「紅はこべ」を読んだのは大学生の頃だったかな。
 上原きみこの漫画「マリーベル」に出てくる青いバラの元ネタと教えてもらったのがきっかけ。
 読後印象としては、「イギリス人作家の描くフランス革命物(+o+)」に抱く思いをこれにも感じたものだったかな・・・・・・≪豊かな外野が貧困の当事者に好き勝手な正義感を抱く図≫とか思ってました。マルグリットとパーシーの関係がなんだかしっくりこないし。

 そんなわけで、星組公演「スカーレット・ピンパーネル」に対する私の期待度はさほど高いわけではなかったのであります。とうこちゃん(安蘭けい)主演公演なので、8月1回、9月1回、10月1回と3回ほどチケット確保したわけですが。

○1回目観劇後の思い

 アメリカ人作品ならではの娯楽大作。
 フランス革命政府に対するイギリス貴族パーシーの正義感は、突き詰めて考えれば、例えばイスラム世界や社会主義世界に対するアメリカ人の正義感に似たものも感じないでもないですが、観劇中にダイレクトにそう感じてしまうほどでもなく。
 あまりにも娯楽大作として作られている作品だったので。
 まあ、いいか、単純にアメリカ版水戸黄門みたいなもんだと思えば。といった感じで、すんなり楽しんだ・・・・・・・^^;

 マルグリット視点の原作を、パーシー中心に切り替え、パーシーとスカーレット・ピンパーネルの活躍が前面に押し出される。それゆえ、パーシーの真実がわからないマルグリットの悩みが馬鹿に見えてしまうというデメリットが生じ、マルグリットがパーシーの正体に気づくくだりに関する舞台上の展開がマルグリットをさらに馬鹿に見せてしまってはいるけれど。

 そして告白しますならば。
 柚希礼音くんのショーヴランが「裏町のドブを見て育った」と歌うのを聞いた時、とうこちゃん(安蘭けい)、お貴族さまよりもそっちが似合ってないか?なんてことも思ってしまった・・・・・・・・・・。

 楽しかったーーーと思いつつも、どこか斜に構えた感想だったなあ。

○2回目観劇後の思い

 やはり楽しいわ。
 
 そして、楽しいと感じる自分を否定するのをやめてみることにする。

 ついつい≪その単純思考はファッショをも呼ぶ≫と型にはまったマイナス思考ばかりしてしまう変な癖が私にはあったんだけど。
 ここはフィクション。美しい夢にひたりながら、まぶしく見つめながら、憧れ続けたっていいじゃないか・・・・・。

 素直に恋の感情を認めてみたら、いきなり自分の中でわーっと感情があふれ出す(笑)

 ピンパーネル団結成からデイドリーム号でフランスに向かうまでの流れのワクワク感! 信念の人パーシーの両脇を、兄貴分的なデュハーストと上品な優等生の弟分フォークスがかため、元気で若々しい青年達がさらにまわりをかためる並びの良さ。これを楽しまずに何を楽しめというの?というようなワクワク感!
 パーシーVSショーヴランの最後の戦いの盛り上がり。形勢が一気に逆転する瞬間の痛快さ。これを楽しまずに何を楽しめというんですか、といった場面がたっぷり。

○3回目観劇後の思い

 「ひとかけらの勇気」や「栄光の日々」の歌詞を聴きながらぼろぼろと泣いてしまうようになる。

 正義を愛し、非人道的な行為を憎み嘆き、自分はどう行動したらいいのかとまっすぐに自分に問いかける。

 パーシーの思いが真っ直ぐすぎて。まぶしくて。

 「どうしてだろう、この世の中に欺瞞と不正溢れている」
 「遠国に嵐吹き荒れても僕は見逃しはしない。ひとかけらの勇気が僕にある限り」
 「今度こそ本当の自由を手に入れるために闘う、幻に惑わされずに」

 そんな言葉が、あの説得力のある歌声にのっているんですよ。
 これを素敵に言わずに何を素敵と言えというのだ?

 そうした、強い信念の中で生きながらも、一人の女を前にすると突如愚かなちっぽけな男になり下がって苦悩する様が素敵。とうこちゃんが千秋楽だからということでコメディに走り過ぎないかなと観劇前はちょっと心配していたのだけど、千秋楽的お遊びはそれがリピーターに期待されるお約束場面のみに限定され、パーシーという人の思い、マルグリットとのすれ違う思いの表現において熱い勢いのある舞台になっていた。

 マルグリットが「ひとかけらの勇気」を歌う姿で、疑念から完全に開放され再び彼女への激しい恋に陥るパーシーの姿があまりにも怪しげなグラパンであるってのが笑えますが、彼の揺れ動く心が可愛くていとおしくて、その場面でマルグリットを見る余裕が全然なかった馬鹿ファンの私・・・・・・・・。

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2008年10月 3日 (金)

10月

○観劇予定

星組楽、私生活、雪組、銀ちゃんの恋、詩人の恋、傾く首、傾く首

 先月の観劇は、星組1回、ギャツビー1回の計2回のみだったけれど今月は・・・・・・。
 
 何が何でも行くためにしなければならないあれやこれやを考えると目眩がしそう。このところ、ストレス続きで睡眠不足と酒量増になりつつあるのでなおさらです・・・・。
 
 星の楽。本来、出かけるなんてとんでもない日のはずだったのだけど、絶対はずれると疑いもしなかった宝塚友の会の抽選が当たってたのだった。朝からバタバタしている日なので、肝心の観劇時に疲労していなければいいのだけど。

 傾く首。1回目はトークショーの回らしい。トークショーがあるというハガキを受け取ってびっくり。モディリアニの絵は実は私の好みとは違うんですが^^; オギーがモディリアニをどう描くかには大いに興味あり。
 詩人の恋。9月に本多劇場で見る方が日程的に楽だったんだけど、前回も本多劇場で見たから今回はサザンシアターで見てみたかったの。おかげで、スケジュール帳の詰まり方を見て憂鬱になりますが。

 銀ちゃんの恋。宝塚の北島マヤ・野々すみ花がどんなふうに化けるか見たさでチケットをゲット。ゆうひ君の銀ちゃんも、ポスターを見る限り、ものすごーーーーーく似合っていそうというか、斜に構えたゆうひ君と全く違う新たなゆうひ君が見られそうというか、そんな予感ばりばりで楽しみ。

 私生活。図書館で原作コピーしただけでまだ読んでないからストーリーも知らない。内野聖陽さんが文学座同期の寺島しのぶさんとの共演を非常に嬉しそうに語っているのを「徹子の部屋」で見たので、演技者同士の舞台上のバトルがかなり私好みの形で見られるのかなあ、と期待しているところ。

 雪組のお芝居は事前に脚本読了済。今のところ、舞台への興味よりは、脚本を書いたハリーの政治観への興味の方が大きかったりする^^; 

○今月のテレビ

 フィギュアスケートのグランプリシリーズ、今年は見ないことにしました・・・・(:_;)
 録画を来年までとっておこうかと最初は考えたのだけど、全部見るのも大変だし、NHK杯以外は潔く諦めることに。テレビ朝日の大騒ぎ放送には辟易していたので、ある意味、ストレスの無い日々に?
 そんなわけで、NHK杯最終日が選挙とかにぶつからないように今から祈っておこう。放映時間変更なんかされちゃったりしたら対応できなくなっちゃいますもの。録画を見るのは来年。出場予定の日本人女子選手は三人とも皆大好きだけど、特に鈴木明子さんに応援の念を送ります。

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