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2011年10月11日 (火)

SWANモスクワ編読んだ—-2011年秋号

 ただ今私、入院中。しかし、スワンマガジン新刊購入のために、外出届を出して本屋に行った私であった。10/8に某書店で購入。

■アグリー・ダックは、子ども時代に孤独の中にいたリリアナの心の叫びを描くものであり、だからこのバレエは観る者が彼女の人生を追体験する物語である。セルゲイエフ先生は、マクシモフ氏に、リリアナと自分は同じ魂を持って生まれたのだと語る。

(感想)

 アグリー・ダックの原型を見せるために、リリアナ主演のアグリー・ダックに大きな頁数が費やされる。1970-80年代と今では有吉京子の絵柄は若干かわってきてはいるが、絵柄の変化がリリアナ自身の変化となにげなくリンクしているようにも見える。
 その後に真澄が踊るのは、おそらくは、原型とは全く異なるものとなるということなのだろう・・・・。リリアナもマクシモフ氏モセルゲイエフ先生も、それを期待しているだろうし、多分、水先案内人を演じるレオンの役どころも、セルゲイエフ先生とは全く異なるものになりそう。
 意外と、真澄とレオンの間に、≪対立≫が描かれるような関係性だったりして(笑)


■真澄は、リリアナの神がかったコンテンポラリーダンスの場面を見ても、自分自身のアグリーダックを躍るのだというゆるぎない自分への信頼ゆえに落ち着いている。リリアナはリリアナ、自分は自分。「春の祭典」の乙女をおどってから、自分の中で大きく何かがかわった、自分の中でアグリー・ダックをおどる準備ができたのだということを、真澄は自覚している。

(感想)

 ここまで言及されるのなら、真澄がアグリー・ダックを2度おどるチャンスがあるから1回は失敗回にあてるなんていうイライラは予想しなくて大丈夫かな?
 はやく真澄のアグリー・ダックの完成形と彼女ならではの役解釈が動きに反映されるところが見たい。30年待ったのだもの(笑)

 奇跡の場面は美しいが、はじめて東京でのコンクールの短い抜粋場面を見た時とは印象が若干違っている。あの時のリリアナが演じた奇跡は、天使の覚醒だった。今のリリアナが見せる奇跡は、人間であるリリアナが覚醒する美しさだ。

 リリアナの相手役として水先案内人を演じるセルゲイエフ先生の表情からは、緊張と緊迫感のまざる厳しめのものが消え、二人のアダージョは信頼感と幸福感に満ち満ちたあたたかなやわらかさ。
 踊り手がかわって真澄とレオンが組むと、このアダージョもどう変わるんだろう。わくわくする。
 リリアナのアグリー・ダックは人間にと近づいていったが、真澄のアグリー・ダックは、物語の流れを見る限り、人間や地上の強調とは別の次元のものになっていったりもするんだろうか。一方の水先案内人のレオンは、抽象的な存在であるセルゲイエフ先生の水先案内人とは別種のものになったりするのだろうか?

 水先案内人の役割強化は、ストーリーを眺める限りでは、リリアナとセルゲイエフ先生のパートナーシップをより描くこと以上に、真澄とレオンの関係性を今までとは徹底的にかえていくことをねらっていると思われるので・・・・。

 いや本当にワクワクするなあ。
 ぶっちゃけ、真澄とレオンの世俗的関係部分がどうなるかよりも、この二人の関係が全く新しいアグリー・ダックとどう関係するように描かれるかの方が、ずっとずっと楽しみ。


■リリアナ主演のアグリー・ダックの舞台大成功。しかし、リリアナはセルゲイエフ先生の腕の中で倒れ、カーテンコールの幕はあかない。
 不吉な予感をおぼえて楽屋に走る真澄、そしてラリサ。
 リリアナはセルゲイエフ先生に、今自分は幸せだと語る。
 あおざめている先生は「ああ、わかるよ、リリアナ・・・・私も・・・だ」と答え、「愛してるよ」と言ってリリアナの唇にくちづける。
 真澄が楽屋に着いた時、マクシモフ氏の「リリアナ、逝くな」の叫び声が。首をふる医者。嘆くダンサー達。それらが、リリアナが逝ってしまったことを示す。
 真っ青になった真澄は劇場をとびだし、レオンが真澄の後を追う。
 ラリサは真澄に少し遅れて楽屋へ。(彼は客席に残ってるのか?)

(感想)
 結局リリアナは真澄のアグリー・ダックにはまにあわなかった。
 リリアナの死そのものよりも、まにあわなかったということがショックだ。
 誰よりも誰よりも真澄のアグリー・ダックを待っていたのがリリアナだったのに。
 その気持ちの強さは、セルゲイエフ先生もマクシモフ氏もレオンもかなわないほどであったと思われるのに。


■車にひかれかける真澄。かばうレオン。混乱した真澄の中では、ひかれかけた車は、実際には普通の乗用車であったにもかかわらず(車オンチの私には車種はさっぱりわからないけれど)、真澄の脳裏にはトラックの姿が。
 混乱した真澄は混乱したまま、誰を相手に何を喋っているかもはっきりわからないような状態で喋り続ける。
「わかってたのに・・・私、誰にも言わなかっ・・・だから・・・・だからリリアナ踊っちゃったんだわ。踊らなかったら・・・あんなこと起きなかったかもしれないのに・・・私のせいで・・・話したいことが・・・・一杯あったのに。もう遅い。ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・。私が・・・・彼女の手を離して・・・・しまっ・・・・私のせい・・・・で・・・・死んでしまっ・・・・」

 今はっきり明かされようとしている、真澄が抱き続けてきた≪罪悪感≫。
レオンは心を爆発させるような勢いで叫び、真澄の混乱に歯止めをかける。
「真澄!そうじゃない!ルシィの死は・・・あんたのせいじゃないんだ」

(感想)
 ついにルシィへの罪悪感の物語が描かれる局面がやってくる。レオンは今まで何を思ってあの一言を言えずにいて、そして今回何を思って言わずにはいられなかったのだろう。
 自分からあれを言い出せなかったレオンは、真澄と離れるつもりですらいたのに・・・・。
 真澄だけでなくレオンの中でも何か一つ、枷がはずれる時がきたのだろうか。

  しかし、頁バランスは大丈夫なのかな?
  ルシィへの罪悪感と真澄が今まできっちり向き合えずにいた姿と、そこからの解放の流れはじっくり描いてほしいけれど、リリアナがその晩逝ってしまったことについても、じっくり嘆いてほしい・・・・。ある意味リリアナというのは、レオン以上に、真澄にとっては不可欠な絶対的存在なのだから。

 ところで、とーーーっても世俗的感想を付け加える形で申し訳ないですが。
 真澄、そしてレオン。その服で車道に居続けるのは寒すぎますわね。お二人さん、どっかに移動しなきゃ。でも、混乱の真澄を劇場に連れ帰るのは無理そうに見えるなあ。じゃあ、次号はどっかに移動しての物語となったりするの?

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コメント

初めまして。とうとう、リリアナが…。これが真澄にとっては必要な出来事だったのかもしれませんけどね。ちょっと残酷な気持ちもしますね。それと、セルゲイエフ先生の気持ちが何となく判るような。彼は明らかに真澄に惹かれています。だからこそ、自分の気持ちを整理する為にも、真澄のパートナー(正編の方のアグリーダックですね)をしなかったのでは?リリアナの思いを受け止めるために婚約という儀式も必要でした。彼はずっと苦しんでいたのではないでしょうか。勿論、真澄の資質や可能性だけではなく、彼女の出生も関係あるかもしれないし。
それにしても真澄のアグリーダック早く見たいです。
寒くなるので、お体を大切に。更新を楽しみに待っています。

投稿: まるさん | 2011年11月18日 (金) 20:34

まるさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

セルゲイエフ先生がリリアナの思いをうけとめたのは、儀式の意味合いも強かったのでしょうかね。異性に対して向ける恋愛感情のすべての部分をリリアナに向けていたわけではなく、一部分だか半分だか大きな部分だかが、真澄に対しても向けられていたというのは、セルゲイエフ先生自身も哀しいけれど、理解してしまっているリリアナも哀しいですよね・・・・・。

投稿: るんせる | 2011年11月20日 (日) 07:58

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