観劇(ミュージカル)

2009年12月21日 (月)

「パイレート・クィーン」で微妙な気分に・・・・・・

 ああなんか自分がものすごく少数派なんだと感じてしまった。
 帝国劇場2階B席での「パイレート・クィーン」観劇。

 カーテンコールで、まわりの人が大勢、「楽しかった!!」と言いながらスタンディングしてる。
 そ、そうか、楽しいのか。
 いや、私、2幕後半の展開に呆気にとられてたもんで、そんな周囲に溶け込めずに終わってしまった(:_;) なんか別の作品の上演権獲得のために抱き合わせ販売された公演かしら?と思うくらい、脚本がダメダメと感じたんだけど・・・・・・・・どう変えればもっと面白くなるかという妄想を繰り広げる気力すらも湧かないまま舞台を見終わるって結構久々なんだけど・・・・・・・・・・そ、そうなのか、みんな楽しくスタンディングなのか・・・・・・・・・・


・壮観なアイリッシュダンス

 アイリッシュダンスという分野をよく知らなかったので、こんなすごいのを見るのははじめて。
 なんて壮観!
 ものすごい足さばきを上体を動かさずに繰り広げるダンサーの皆さん。
 ものすごい、という形容しか浮かばないのがもどかしい。

 カーテンコールでの手拍子はもったいない気がするな。
 超絶的なステップを目で楽しむだけでなく、それと共に靴で鳴らされる床の音も楽しみたいので。あの足さばきとあの音が一体になってるって何事?

 そんなわけで、チケット代金分、満喫はしてます!!!!!
 アイリッシュダンスは楽しかったーーーーー!!!!!!


・上演前にキャスティング情報を聞いた時

 おおっ、なんて豪華な並び!と思った。
 が、すみません、≪この並び、15年くらい前だったら、もっと気持が盛り上がったかもしれない≫とも思った・・・・・・・・・・・・・・^^;


・海賊の戦いって

 この時代の海賊の力量って、船とか艦隊をどうさばくかの力量の方が、白兵戦における力量よりも重要だと思ってた・・・・・・・・・。

 いや、舞台じゃ艦隊戦における力量を見せるなんて難しいのかもしれないけれど。
 でも≪海賊≫なんだもの。海で、船で、そういった場で戦う人達だもの。
 剣で闘っているだけの戦闘というのが、違和感になってしまって。


・空虚

 女同士ならわかりあえる?
 話し合えばわかりあえる?

 女海賊グレイス・オマリーが女王エリザベスのもとにのりこんでお話をすれば、それで万事解決するのか・・・・・・・。

 フェミニズムを意識した作劇を試みてみたものの、所詮はフェミニズムとは縁のない作者が壮絶な失敗をして、20年前だか30年前だかのエコフェミもどきの妙な女性観を入れてみた作劇をしてしまった。そんな印象^^;

 部族抗争が起こっている地域全体を勢力下におさめようとするなら、それなりの取引やら駆け引きやらは必要だろうし、汚いことに手を染めねばならないこともあるだろうし。エリザベス女王はビンガム卿がアイルランドを攻略するにあたって、「あくまでも清廉であれ」のような命令はしていない。はやく解決しろと言ってるだけ。
 だから、ビンガム卿に同情してしまう。アイルランドよりは、アフリカやらインドやらで力量発揮したかったと言う彼は、インドではなくロンドン塔に行きなさいとエリザベス女王に命じられる。客席に笑いが起こるけれど、私、笑えないんですが? だってビンガム卿は女王の命令通りに事をすすめようとしてただけじゃないですか?
 自国ではない地域を侵略してその地域の民を「臣民」(!)にしようとするなら、戦いにおいて略奪やら女性へのひどい行為やらの汚いことが起こるのを想定しないなんて、為政者としてお子様すぎる。エリザベス女王のキャラ設定がさっぱり理解できない・・・。


・キャラクターの感想、キャストの感想

 保坂知寿さんはどちらかというと、恋愛よりも優先するものがある女性、よりも、ひたすらに愛を捧げる女性を演じる方が合っているように見える。だから、グレイスの保坂さんには少し違和感も感じる。でも、体は細いし声は若いし、なので、年齢的な違和感はB席から見る分には感じないのがすごい。

 山口祐一郎さんという人は、ただひたすらに愛する、よりも、ひたむきな愛を捧げられているにもかかわらずそれに気付き切れずにいる傲慢さが、かつて似合っていた、ように思う。ファントムやトニーよりも、「永遠の処女テッサ」のルイスが好きだ!と思ってた私は、男女の恋愛を演じた祐一郎さんにはそういったイメージを持っていた。
 だから、ピンスポットが当たってない時であっても、ひたすらにグレイスを見つめグレイスに愛を捧げているこのティアナンという男・・・・・・・・・・・あれ、このタイプの男って私、ものすごく好みのはずなんだけどな? 見ていてしっくりこなくて燃えてこない、という違和感を引きずり続けてしまった。 そして。祐一郎さんの歌は、どうも私の好みとは違うみたいなんだ(:_;) 歌い上げ系のメロディでの声は素晴らしいの。でも、弱音、囁きといった系統のメロディの時に、ヒアリングしているような気分になってしまうの・・・・・・・・。

 その他のキャストでは、演技が圧巻だぁぁと思ったのがビンガム卿の石川禅さん。ここ数年、何を見ても巧いなあと思う・・・・・・・・・。

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2009年12月16日 (水)

「SHE LOVES ME」雑感

 シアタークリエにて「SHE LOVES ME」を観てきたので、感想を走り書きにて。
 作品自体は、≪好きなミュージカルを10個あげて≫と言われたらあげるくらいに大好きな作品。あたたかくハッピーな気持になれる可愛らしいラブストーリー。
 ちなみに私はジャニーズには疎い。
 疎いけれど、ジャニーズの子が主演するのは嫌といったような気持は別にない。新しい出会いが良き出会いならラッキー☆とか思ってる。面食いでもあるし。

 まあそんなスタンスの一観客の感想であります。
 以下の感想、物語ネタバレも含んでいるのでご注意を。

●あらすじ

 ハンガリーのブダペストにある香水店。店長はマラチェック(徳井優)。店員は、ジョージ・ノワック(薮宏太)、スティーブン・コダリー(植草克秀)、イローナ・リター(知念里奈)、ラディスラフ・シーボス(河合郁人)。そんなお店に新人店員としてアマリア・バラッシュ(神田沙也加)が入ってくる。顔を合わせた時からミスター・ノワックとミス・バラッシュは何か喧々諤々となってしまう関係。ではあるのだが、シーボスは実はこの二人の喧々諤々はどうやらお互いを気にし合っている関係なんじゃないかと推測している^^; コダリーはイローナとつきあっているが、コダリーは女ったらしでイローナは振り回されてしまっている。
 ジョージがまだ独り者でいることを心配するマラチェック。でも、実はジョージには大事な女性の存在があった。文通相手の、顔も名も年も知らぬ女性。季節の話をしたり読んだ本の話をしたり、そうした手紙での会話で互いの絆を感じ取れるような相手。しかしその女性とは実はアマリア。彼女も、顔も名も年も知らぬ文通相手の男性との他愛無い手紙での会話で、強い絆を感じ取っている。
 そんな二人が≪手紙のあなた≫とはじめて出会う約束。
 期待と不安と不安と不安^^;の中で店に向かうジョージ。その店で、会うための合図として本に薔薇をはさんで待っていた女性は、いつも喧々諤々をやっているあのミス・バラッシュ!?

●若い・・・・・・・^^;

 このミュージカルの舞台について発表された時の感想は以前書いた
 主演二人が、物語を考えるとちょっと若すぎるように思った。

 実際に舞台を観てみたら。

 マラチェックが≪まだ独り者≫のジョージのことを心配していたり。
 ≪孤独な独身者の会≫なんてのがあって、ジョージもアマリアもそれに入っているわけではないんだけどその会の存在のことは全く気にならないわけでもなかったり。
 そういった台詞からくる物語情報を思うと、ジョージとアマリアはやはりビジュアル的に若すぎるという印象が^^;
 
 上記したような、年齢が若干高めに聞こえる台詞を削って、不器用で内気な二人の物語として作りこまれていたら、違和感なくハッピーなラブストーリーとしてもっと入り込めたかなあと思う。

●劇場サイズ

 帝国劇場や青山劇場といったサイズよりも、やはりシアタークリエみたいな小さな劇場の方が断然あっている。

●余計な演出

 寒い駄洒落多発。客席受けてるんですが・・・・・・・・・笑えるかな????????

 アイスクリームをジョージに売ったアイスクリーム屋の女性はアマリアのお母さん。
 ジョージは「アイドルのようだった」と言い、アマリアは「いつも言われる」「でも私の方が若い」といったようなことを言う。
 こういう、物語世界とは異なる、現実に戻されるような七光問題をあえて持ち出すような演出は好きじゃない。客席受けてたけど・・・・・・・・笑えるかな????神田沙也加ちゃんという女優さんを単体として結構気に入っている私はかなり嫌。

 ラストシーンで、変わり果てたコダリーを出されたのも嫌。
 コダリーは退職の際にダンディに歌って、そのままで終わってほしかった。

●正体バレ

 気になる謎の人は、実は、身近にいる、いつも喧嘩ばかりしているあの人だった!!!!!
 そういう構造の物語が大好きなるんせるは、正体バレがどういう演出をされるかについては、とっても期待しながら見る。

 1幕終盤で「手紙のあなた」の女性がアマリアであることをジョージが知る。
 2幕終盤で、「手紙のあなた」の男性がジョージであることをアマリアは知る。

 このアマリアが知るシーン。
 ここは今回の演出が好み。
 以前見た市村正親さん&涼風真世さんバージョンだと、ここが淡々としすぎていて物足りなかったのだ。
 1幕ラストがあんなふうに盛り上がるんだもの。
 ≪手紙のあなた≫が誰か知ってしまったジョージ。≪手紙のあなた≫が誰かを知らないから≪手紙のあなた≫と会うはずの場所にあらわれた邪魔なジョージにひどい言葉を投げつけてしまうアマリア。大事な人であった≪手紙のあなた≫、気になってた人であったアマリアにきつすぎる言葉を投げつけられいたたまれなくなりその場を逃げ去るジョージ。はっとして「本気じゃなかったのよ」とミスター・ノワックに言うがまにあわないアマリア。
 楽しい楽しい正体バレとすれ違い(#^^#)

 ではその後、彼女が彼の正体をどんなふうに知るか、それに期待が高まるじゃないですか。だから、その部分が淡々と処理されちゃうのは寂しい。

 今回のシアタークリエ版は、この正体バラシ場面が前よりもドラマチック。

 ジョージとアマリアが、手紙と関係ないところでもお互いに実は惹かれあっていたということを、二人がきっちりわかりあえるような会話をかわした後で。
 ジョージは歌い出す。アイスクリームの歌を歌いながらアマリアが≪手紙のあなた≫に書いていた、その手紙の文章を。
 アマリアの表情がゆっくりとかわっていく。驚きへ。喜びへ。
 喧嘩ばかりしていたけれど本当はとても気になっていた人。手紙のやりとりをしながら心の絆を感じていた人。それは同じ人だったという驚きへ、喜びへ。

 ここの場面はとーーーーーっても満足☆

●キャラ違い

 コダリーの植草克秀さんは、容姿的にも持ち味的にもキャラ違いだと思うんだ。女ったらしが似合わない。
 イローナの知念里奈ちゃんははっちゃけたいいお芝居をしていて単体として見る分には面白いんだけど。
 知念ちゃんは美人さんすぎる^^;
 だから≪イローナがコダリーに振り回されている≫という設定がビジュアル的に納得がいかない。
 イローナは、美人じゃなくていけてない女の人が厚化粧して頑張っちゃってるというキャラだと思うんだ・・・・・・。

●ジョージ

 ジョージのの藪宏太くん。
 この役には若すぎる、とは思ったけれど。
 素直で真っ直ぐな演技には好印象。
 
 歌もよかった。素直な良い声で、歌詞も音もはっきり伝わり、台詞になっている歌。
 るんせるは、ミュージカルの歌は≪歌唱になっている≫歌じゃなくて≪台詞になっている≫歌が好きなのであります。そういう意味では、彼の歌は好きなタイプの歌い方だ。

 2カ月公演を通す発声なのか、若干気にもなったけれど、そのへんのキャリアについては私はよく知らない・・・・・・・・。風邪に気をつけて頑張れーーーととりあえず声援をおくる。

 2幕のソロ「She Loves Me」は藪くんがたっぷり客席通路を歩きながら歌う。ちなみに私の席は前方上手ブロック通路際席。手を伸ばせば触れそうな位置に立ちどまって彼が歌った。ファンの人すみません、彼をよく知らない私がこんな好位置で彼を観てしまって。

●カーテンコールの後はジャニーズショー^^;

 「She Loves Me」という作品そのものを愛している私、この作品の後にこういう形でショーを持ってこられるのは嫌だなあ^^; まあ、制作発表の時点でそうだろうとは思っていたのでショックを受けたというわけではないですが。
 スタンディング有、ミラーボール有、バック転有、ドライアイス有。 

●本日のお客様

 藪くんと植草さんの並びでの挨拶。
 真っ先に植草かっちゃんが今日はカミカミだったことを指摘する後輩の藪くん^^;
 真っ先に言うのがそれかぁぁぁぁ?とうけました^^;

 藪くんが≪僕の尊敬する二人の先輩が今日は見にきて下さいました≫と挨拶し、大先輩二人(ヒガシ&タッキー)の観劇を紹介したから、客席からは「きゃぁぁ、どこぉぉぉぉ!?」という歓声があがり振り返って客席を探し見る人多数。
 幕間で楽屋に来たヒガシもかっちゃんにカミカミ指摘をしたらしい。

 ちなみに、客席、ジャニーズのファンとおぼしき方が多かった様子。
 客席通路をジャニーズの方が通ると、なんとなくそのあたりのお席が賑やか。「きゃぁぁぁ」「かわいぃぃ」という声がそこここで聞こえた。
 クリエのトイレ初体験の方も多いらしく、
「どこがあいているのかわかんない」
と文句を言っている声が結構聞こえてきた。あまりにも何度も聞こえたので、「○」が出てるかどうかでわかることを、幕間にスタッフの人はきっちり誘導してあげればいいのに、と思った^^;

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2009年11月21日 (土)

「グレイ・ガーデンズ」のグールドのピアノーーーそれは武装なのかもしれない、と思った

 「グレイ・ガーデンズ」の感想の続き。
 ピアニスト役の人が出なくても観劇予定だったけれど、出演が決まったと聞いた時はびっくりしながら大喜びした^^;
 決まったと聞いた日は、カード会社でチケットを確保した翌日だったが・・・・・・・・^^;
 でも、後方から見るこの舞台全体像はとても良かったので、下手に出演者枠で前方席おさえたりしてなくて正解だったのかも???????^^;

 ただ、大竹しのぶさんとの並びってどんなんだ?????並ぶと位負けしないか????とか、演出の宮本亜門さんは吉野圭吾くんの持ち味が一番魅力的に見えるのがどんな時か把握しているかどうかの不安もあったりした。
 舞台を見たらその心配はふっとんだ。強すぎるほどアクの強い人である大竹しのぶさんのイーディスとの並びが、思いがけないほど良かったんだ。今年観た圭吾くんの舞台の中では、「グレイ・ガーデンズ」のグールドが一番好き!!!!

 綺麗な存在感。

 「AKURO」の≪謎の若者≫では「美しい生き物」と思ったけれど。
 この舞台のピアニストのグールドに感じる言葉は「綺麗」だ。

 この語感の違いは、グールドというキャラに、繊細さ、弱さのようなものが前面に出てきていることを感じるからかな。
 イーディスという、強烈な個性を前にして。
 グールドは、一人の男としては、その個性に圧倒される存在だ。
 彼らをよく知らぬ人には愛人と見られているであろう存在だが、若き日のリトル・イディに言わせると愛人ではない存在。それが本当なのか偽りなのかは見る者の想像にまかされてはいるのだけど。
 おそらく、リトル・イディの言ったことは本当なのだと思う。
 月刊「ミュージカル」に、グールドはゲイだという裏設定があるのだと書かれていたのだけど、そのあたりがリトル・イディに、イーディスとグールドの関係は男と女の関係ではないのだと確信させたということなのかな。舞台上で裏設定は明確に語られないけれどイーディスとグールドの関係性に男と女としての性的な空気感も全然感じ取らせない。多分リトル・イディが言ったように、本当にそんなものは存在しなかったんだろう、と思わせる印象の並び。

 でも。二人が男と女の関係ではないのだとしたら。
 グールドは、男としての自分のあり方、いい服を買ってもらいイーディスに依存する生活をする自分のあり方を、どう捉えていたのだろう。

 彼は幸せだったのだろうか?と1幕を見ながらずっと考えていた。

 幕間でぼんやりと彼の生き様を考えているうちに、音楽という形でイーディスに接することは、彼が彼自身の個を出すための、イーディスという強すぎる個に押しつぶされないための武装であったのかな、という結論にいく私。くわえ煙草は武装をさらに強化するアイテム。
 ピアノとか曲提供という形をとらねば、イーディスという強すぎる個性の前には存在すら出来ないから、ピアノによって音楽によって彼は武装し、音楽によってこそ彼は語ってた?
 だから、2幕で彼が自殺したのだと聞かされた時に、なんだかすごく納得させられたのだ。ああそうだよな、イーディスと離れたら彼は生きられないな、と。
 武装して音楽という形で強い個性に拮抗していた彼は、その強い個性と離れた時に武装をも失ってしまい、自失感のみが残る。その結果、生きていられなくなってしまった。

 その繊細さな存在感を、綺麗、だと思った。

 だからこそ、2幕での、猫に重なる幽霊としての存在感が生き、綺麗だ、とさらに思った。
 幽体のごとく舞台奥から登場する姿。ベッドの脇にすわりこんでいる姿。下手側で背を向けて立ってゴミ屋敷の二人をずっと見つめる後ろ姿。
 
 綺麗すぎるほど綺麗な存在感・・・・・・・・・・。

 これを観た後、1幕を思い返す。強すぎる個のイーディスとの並びの繊細な武装もまた、凄絶なほどに綺麗だったなあ、と思い返す。

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2009年11月20日 (金)

「グレイ・ガーデンズ」観劇記

 家を出ていきたいと思いつつも結局は出ていけなかった娘、陽気な佇まいで娘を実は抑圧し支配している母。その二人と、二人をとりまく世界の物語。

 アメリカでは誰でも知っているという、落ちぶれたゴミ屋敷邸宅のグレイ・ガーデンズ。1幕では、華やかで富裕な生活をおくっていた昔日のある日の午後が語られ、2幕ではゴミ屋敷で暮らす老いた母と老いた娘の暮らしが語られる。

 1幕では母イーディスを演じ、2幕では50を過ぎた娘リトル・イディを演じる大竹しのぶさん。かつてパルコ劇場の「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」で、激しい母娘の愛憎劇の娘を演じた大竹さんだが、この「グレイ・ガーデンズ」の舞台の母娘の愛憎では前面に憎の部分の激しさは出てこない。愛の部分の優しさ、コミカルな物に、おさえきれぬ苛立ちがまざる。そうした母娘の姿。

 とはいっても、有名なゴミ屋敷を築き上げた母娘のそれぞれの強すぎる個性はしっかりとあるわけで。
 舞台上に母娘の対峙もあるが、それに巻き込まれる人達にどちらかというと共感しながら、対岸の愛憎劇を見物するような心境でこの母娘の物語を観た。

 大竹しのぶさんが母娘の物語、すごすぎる、と書き流す^^; 私、いつもこの人の舞台については、ものすごい、とのみ書いている気がする・・・・・・・・。言葉を封じ込める舞台姿の人なんだもの・・・・・・・・・。

 若き日のリトル・イディを演じた彩乃かなみちゃんが素晴らしかった。

 宝塚でも、ショーで毒々しい雰囲気を漂わせる時が魅力的だったりする人だった。
 お芝居だと、自己顕示がいい意味で生きるような役の時が一番魅力的に思えた。自己顕示的なものが物語世界に不一致に思えたり、自己顕示を抑制して物語世界や相手役に合わせようとして魅力を減じたり、ということもしばしばある人でもあった。
 だけど、今回の舞台は、大竹しのぶさんが演じるリトル・イディの若かりし日ですよ。かなみちゃんのリトル・イディが老けると大竹しのぶさんのリトル・イディになるわけですよ。
 そんなかなみちゃんが、2幕の大竹しのぶさんのリトル・イディの若き日を1幕で演じ、1幕では大竹しのぶさんが演じる母イーディスと対峙する。

 面白い物が観られそう、という期待は裏切られず。
 過去に演じてきた場は全然違うけれど、お芝居の底に流れる物が似ているんだもの。大竹しのぶさんの演技も、いい意味で自己顕示が激しいし、毒々しかったりもするわけで。まさに母娘であり同一人物であり。そんな強い個をかなみちゃんが演じた。

 シアタークリエ後方センターでの観劇。
 長くなりそうなので、ピアニストについての感想は別記☆

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2009年11月15日 (日)

信じたくない

 宝塚歌劇は、かつて私にとっては「たまに」「ぶらりと」「気軽に」見るものだった。
 出演者の名前、演出家の名前等をきちんとチェックしながら、基本的にはどの公演も見るようにする、雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」を毎月チェックする、そういった感じで見るようになったのは80年代末くらいから。
 「ロマノフの宝石」というお芝居を見た時に、
「へぇぇっ、宝塚って、こんなに粋な大人っぽいお洒落なお芝居やれるとこなんだぁ」
と瞠目して、正塚晴彦という演出家の名前を覚えた。

 その時に主演していたのが、なつめさん(大浦みずき)だった。

 当時の男役トップは、花組がなつめさん、月組がウタコさん(剣幸)、雪組がカリンチョさん(杜けあき)、星組がネッシーさん(日向薫)。ダンスの花組、芝居の月組、歌と日本物の雪組、美貌の星組の時代。

 今年の私の観劇では、「スーザンを探して」と「この森で、天使はバスを降りた」でなつめさんを見る予定であった。ご病気で降板となり、前者はカリンチョさんが、後者はウタコさんが入った。宝塚で同時期に活躍されていた方達が、なつめさんが抜けたところをがっちりと支えて下さったということが嬉しかった。

 宝塚時代のなつめさんでは、お芝居よりもショーでのダンスが好きだった。
 「ザ・フラッシュ!」を見た時は、呆気にとられた。こんなものすごいダンスショーをたったの1100円で見ていいんだろうか?????と思った^^; 確かなテクニックとスターとしての華やかさを合わせ持つトップさんで、華麗な足の動き方、足を高くあげる時の綺麗なライン等にただもううっとりしていたものだった。

 宝塚退団後も、愛着と尊敬の思いを抱きながら、出演作品全部ではないけれど、結構多く見ていたような気がする。音楽座解散後の吉野圭吾くんがなつめさんと共演することが多くて「姉と弟のよう」とか言われることなんかを嬉しく思っちゃったりして。彼を活躍させてくれるなつめさんに対しては、愛着と尊敬の思いに、感謝の気持なんかも加わってきたりしていた。「Una Noche」のエロティックな二人のダンスがそりゃもう綺麗で素敵だった。

 「Che Tango '99」を見に行った時は、
「どうだった?」
とロビーで友達に尋ねられて、吉野圭吾くんのことはそっちのけで、
「なつめさんの歌が、歌が、歌がーーーーーー!!!!!」
と叫んでた私。美声とは違うんだけど、味のある歌い方の人で、シャンソンとかタンゴを歌う時にその歌唱力が存分に生かされるという印象だった。Che Tangoはピアソラ歌いまくりのタンゴのショー。それまで漠然とリベルタンゴくらいしか知らなかったピアソラの名をその時に覚えさせてもらった。

 このブログを始めてからも、何気なく愛着と尊敬の思いと共になつめさんの出た舞台の感想も書いたりしている。「ピッピ」の感想とか、ショー「RED SHOES,BLACK STOCKINGS」の感想とか。
 続く降板、夏にあった吉野圭吾くんのDSは演奏がアストロリコのステージだしもともとはなつめさんのためだった企画がまわってきたらしいこと、1月の舞台出演予定が≪声の出演≫のみになったこと・・・・・・・。
 覚悟しなくてはいけないのかということは続いてはいたのだけど。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 大浦みずきさんの訃報。Yahooニュースで肺がんと・・・・・。信じたくない。

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2009年9月15日 (火)

「The Musical AIDA」ーーー宝塚ファン的キャスト雑感(2)

 9/11の観劇記録9/14に書いたキャスト印象記の続き。


●ファラオ(光枝明彦 ← 箙かおる)

 宝塚版のファラオは、どっしりとした歌声はいいのだけど人物像がつかみづらかった。チャルさん(箙かおる)に似合う役というのは、エロ親父、コミカル親父、冷徹な権力者だったりするんだけど、この役はそのどれにも該当しないこともあり、妙なセットで登場して一人ソロの場面など、目立つっちゃあいえば目立つ場面ではあるんだけど、次期ファラオの前任者、良き父、という印象が一番前面に出てしまい、富裕な大国の王としては、お飾り王といった印象にとどまっていたように私には見えた。

 が。
 光枝明彦さんがファラオの歌を歌い出したら。
 なんだかこの物語がえらく別の印象になった。

 非常に優しい声。慈愛深い声。
 その声が、このファラオを、慈愛深い人として位置付ける。

 となると、物語の印象もずいぶん異なってくる。
 宝塚版ファラオは、平和の構築、戦いについての展望はすべて人まかせだ。だから政治や社会の腐敗を容易に招く。
 光枝ファラオは、平和の構築や戦いについて、彼なりの思いを抱いている。

 プログラムを見て、ケネディの名をあげているのを読んだのなんかも合わせて、印象があまりにも違ってしまったことは前記した通り・・・・・・・・・・・・・。

●アモナスロ(沢木順 ← 一樹千尋)

 一樹千尋さんの王は、狂気に陥った哀れさのふりに力が入る。こうした弱さが垣間見える男が妙に似合うリアリティある男役さんであることもあり、哀れな狂気といった部分の印象が前面に出てくるからその豹変も衝撃的。

 沢木さんのエチオピア王は、一樹さんの王よりも矜持が高い。高すぎるかもしれない^^;
 狂気のふりをしていても・・・・・・・・なんとかうまく周囲をだまくらかせてはいたようだけど、本当にきわどいレベルのふりだったと思う。「鳩ちゃん」への呼びかけのにあわさなったら^^;
 狂気のふりをおさえたので、より前面に出てくるのは憎悪だ。ある意味、それこそが本物の狂気といえる演出なのかもしれないけれど。
 1幕ラスト、ラダメスが平和を希求する歌を歌う。一樹千尋アモナスロもこの歌の時、憎悪、不信感、嫌悪感で、周囲の人々の盛り上がる中(ウバルドまでこの歌に心を動かされていたように見えていた宝塚版^^;)一人さめていた。さめた状態でラダメスを睨みつけていた。
 沢木さんのラダメスへの睨み付け方はさらに強い。ぎらぎらした憎悪がそこで発散される。


●ウバルド(宮川浩 ← 汐美真帆)

 宝塚版では、エチオピア王子ウバルドの両脇は、王家の元家臣であるカマンテ、サウフェという男がいて、テロ行動はウバルドを中心とするグループによるものだったが、この梅芸版ではウバルドの単独行動として整理される。サウフェというキャラの確立した人が好きだったのと、一人でなく三人の男が一瞬のうちに自害行動に及ぶというシーンが衝撃的なこともあったので、このあたりの人数整理は少し残念。

 宝塚版のウバルドは、演じるケロちゃん(汐美真帆)の持ち味のためか、兄妹であるアイーダとの間に、兄妹ならぬ男と女としての存在感が見えた。あ、いや、間に見えたというんでなく、≪ウバルド→アイーダ≫の一方通行の強すぎる感情が見えたというのが正しいか^^; アイーダを奴隷だと軽蔑する言葉を投げつけるウバルドの本心は、妹が誇り高き王女であってほしいという思いよりも、大事な妹をよくわからん敵の男なんぞに奪われたくないという可愛い感情がどっかにあるように見えた。それが禁断の思いなのかなんなのかは知らないけれど、そうした思いを、エロティックなムードを漂わせた狂気の中に漂わす。手に入れたナイフをなめる姿なんて妙に色っぽかった。

 対する宮川浩さんのウバルド。多分こっちが、木村信司氏の意図した本来のウバルド?強調されるのは、妹に対する思いよりも、国に対する思い、矜持。
 だからなのかな。
 最後に自害する時、裏切り者がいたのだと叫ぶウバルド。
 汐美ウバルドは、裏切り者がラダメスであることが嬉しくてたまらなかったのだと思う。その名を出せば、大事な妹を奪い去ったあの男を破滅させることができる。大事な妹とあの男の関係は完全に断ち切ることが出来て、大事な妹はエチオピアに戻ってくるのだと信じて。
 だから、名を口にすることがまにあわずに力尽きたことを彼は悔みながらその後の二国の状況を霊として見続けてきていたのだろう。

 宮川ウバルドは、裏切り者がいたと叫ぶ時、アイーダのことは考えてはいなかったと思う。
 ただ、テロリストとして叫ぶのだ。和を乱すために。敵国を混乱させるために。
 だから、あの男の名を言うことはまにあわなかったけれど、そのことに悔いはないとも思える。和は乱せたのだから。アムネリス様が煽動者として危機回避を急いだから、結局目的は果たしきれはしなかったけれど。


●神官(林アキラ ← 英真なおき)

 宝塚では、目立つ役どころにつけなければいけない男役スターがいっぱいなので、ウバルドの両脇とラダメスの両脇を男役スターがかためていた。
 が、今回の梅芸版では役が整理され、ウバルドの両脇のエチオピア男性二人はいなくなった。ラダメスの両脇をかためる戦友のケペルとメレルカという二人は、役としては残っているが、存在感が宝塚版ほどではない。脚本改訂によるものだけでなく、演じる人が場で放つ光量の問題であるような気もするが。

 そして。
 演じる人の力量、光量の差の部分もあわせてめだってくるのが、林アキラさん演じる神官の存在だ。俗悪な世俗性を強調するメイクが似合っているかに合ってないか微妙なんだけど、印象的メイクであることは確かで、それもまたこの役の存在感をアップさせる。

 そして、何よりも、歌声が圧倒的だ。存在感ある歌声が、役の存在感をも大きくする。
 だから物語の印象がかわる。
 ラダメスの隣にいたケペルという男の存在感が減じたためにラダメスの孤独や寂しさがより強調されることになる。
 神官の存在感がアップしたために、エジプトという富裕な大国に巣食う腐敗もより強調されることになる。

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2009年9月14日 (月)

「The Musical AIDA」ーーー宝塚ファン的キャスト雑感(1)

 2003年の宝塚歌劇星組で「王家に捧ぐ歌」というタイトルで「アイーダ」の物語を上演すると聞いた時、真っ先に出てきたのは、笑いというか受けてしまうというか、なんかそれに違い感情だった。

 オペラはかなり苦手な私^^; でも、何故か「カルメン」と「アイーダ」はとっても好きで、テレビで放映されるとこの二つは見る。アイーダの最後の土牢の場面での静かなメロディなんて美しくて美しくて大好き。有名な行進曲はどうでもよかったり、だけど^^;
まあそんなわけなので、ベルディの曲は一切使用しないと聞いても、まあ悪くないんじゃない?くらいにしか思わなかったり。

 宝塚でやると聞いてなんで笑ったかというと。
 嘲笑じゃありませんよ、勿論。私は宝塚ファンだ。しかも、それなりに熱烈。当時の星組スターの陣容は大好きで、イチオシの組だったし。

 なんで笑ったかというと、ラダメスという、恋ゆえに愚かにも国家機密漏洩にかかわってしまう脳みそが筋肉でできているみたいな男に、湖月わたる君というトップスターがあまりにもどんぴしゃりに思えてしまったからだ。これ、けなしているんじゃないんですよ。何度も書いているんだけど、わたる君の男役については、陽性で健康的で体育会的でちょっとお馬鹿に見えるけれど妙に熱いという持ち味こそが好きなのだ。昔はわたる君の魅力がさっぱりわからず、宙組の「砂漠の黒薔薇」ではじめてわたる君の芝居いいじゃんいいじゃん可愛いじゃんと思った私は、ファンの方からは蹴飛ばされそうだけど。

 と、ながーい前置きを書いてしまったけれど、9/11の国際フォーラムでの公演の観劇記の続き。キャストから感じたことを、宝塚大劇場・東京宝塚劇場で見た宝塚版との比較もまじえて書き連ねてみる。ちなみに、宝塚版については、役替わりのあった中日劇場版は未見。


●アイーダ(安蘭けい)

 腕を存分に見せている衣装に注目(笑)ほっそーい(はぁと)

 男役二番手時代に演じたアイーダは、世評はよかったみたいなんだけど実は私はそれほど高くは評価してなかった。ビジュアル的な問題も大きかったかな。メイクに迷いが見えた気がした。男役として女役を演じるということの意味を考え過ぎたのか、妙に凛々しさが強く出てしまい、綺麗な女性としての魅力が減じてしまっているように見えた。声も同様、強さが出てしまい、女性もしくは女の子であるアイーダとしての面が見えづらく、「戦いは新たな戦いをうむだけ」と繰り返し歌うメッセージソングの歌い手ではあるけれど、物語のヒロインとしての魅力はわかりづらく。
 脚本もいまひとつ。ラダメスとアイーダが惹かれあうことになるエピソードが直接舞台上には描かれないし、二人の感情の推移も台詞上には出てこない。
 得意のはずの歌もブレスがやたらと気になった・・・・・・・・・・。

 スカイステージ等テレビで紹介映像を見ていると素敵に見えるのに、生で見ると違和感ばかりにおそわれた。綺麗に見えるかどうかに、距離的な問題も大きかったりする?ちなみに、宝塚版も私はいつも2階B席観劇だったが。

 だから、ミニオフで友達と見た時、友達が、私が安蘭ファンだからということもあるのかもしれないけれど絶賛。彼女達は、気をつかうだけで嘘絶賛を続けるってことはしないので、あら、本当に本当にほめてるんだ・・・・・・・・?と何か複雑な気分になった。その年、アイーダと「雨に唄えば」の功績で賞までもらっちゃったりして。
 私はファンなのにーーーー、私の好みと違うところでなんか風が吹いている。風自体は嬉しいんだけど、私自身はあの年に見た舞台では「ガラスの風景」のミラー警部が一番好きだぁぁぁぁぁ!とかじたばたしてたなあ(苦笑)

 話戻って、「王家に捧ぐ歌」の舞台。ラブロマンスとしては「???」となった脚本。
 ただ、そこは、演技をしすぎるほどしすぎてしまう、饒舌演技の星組スターの人達の舞台なのであった。
(ラブロマンスというのはラブシーンがあるからこそラブロマンスなのではないぞ。二人の感情の変容や揺らぎを台詞で見せろ、演出家)
とはしばしば思ったけれど、演じる主役二人は、台詞ですっとばされたそれらを、視線、抱擁の形、声の揺らぎでしっかり見せる人達であった。このため、二人のラブシーンにときめいて失神気味になっている人続出^^;

 で、今回はそのへんどうなっているかなあ、と楽しみにしていたのだけど。

 とにかく細く、女性として見せることに迷いがなくなったのか、雰囲気が柔らかくなったアイーダ。
 とはいえ、脚本上のアイーダはもともと、「戦いは新たな戦いをうむだけ♪」という思いを強く持ち戦いを忌避する感情を非常に強く持ち続けている人ではあるので。
 外見的には細くて、可憐にも見えて(←この「可憐」の部分は贔屓感情かもしれない、客観的じゃないかもしれない)、けれども、根本のところで強い。
 根本のところでは≪女の子≫にすぎないのに立場上必死に威厳を見せようと突っ張っているアムネリスとは面白い対比。

 ラダメスとの関係性は、可憐な印象ではあるものの少し年上の女性と、若々しい青年といった並びの印象。この印象が、最後の最後、死を前にした場面で生きてくる。ぼろぼろに傷ついたナイーブな青年と、彼を母性的な愛情で包み込もうとする女性。


●ラダメス(伊礼彼方 ← 湖月わたる)

 湖月わたるラダメスは、良い家族に恵まれ、良い友人に恵まれ、光の中で過ごしてきた人と見えた。
 光の中の人だからこそ、当り前のように、万人の幸福を求める。自分が幸せであるからこそ、他者も幸せであってほしい。だから、勇猛な戦士でありながらも、本来は戦闘はしたくないという矛盾もかかえるわけでもあるが、良い友人に囲まれた明るい性向の人であるからこそ、軍事作戦を語る際には笑顔がキラキラする。

 対する伊礼彼方くんのラダメス。
 全く違ったラダメスだったと思う。これはラダメスではないかも、と言ってもいいくらい違う。
 とてもナイーブな印象。
 湖月ラダメスは光の中で育ってきた人だけど、伊礼ラダメスは、幼い頃に両親をなくしたりして寂しい思いを抱えながら生きてきた人だったりする?
 寂しさ。だからこそ求める光。そして、彼にとっての光は、アイーダという人となる。
 どうやって会ったのかは舞台上では描かれないけれど。
 アイーダの戦い忌避の思いにひきずられ、もともと持っていた彼のナイーブな側面はどんどん、今あるものへの忌避感につながっていく。
 宝塚版ラダメスは、勝利に湧きすぎる王宮の腐敗を嘆く際に、戦闘で国を支える自分達についての誇りをはっきり見せ、軍の正義と意義に絶対の自信を見せるわけだが。
 伊礼ラダメスはどうもそのあたりが曖昧。軍の正義と意義について、実はあまり明確に考えてなかったりする?(笑)
 愛と信念の乙女であるアイーダにひきずられていくという側面の印象の方が前面に強く出る。
 そして、最後には、出会えたアイーダにすがりつく。出会えたアイーダこそが彼の光、彼女だけが彼の光だった。


●アムネリス(ANZA ← 檀れい)

 地声の響きは良いのに歌はアレレだった檀れい様のアムネリスは、歌はともかく美しさと威厳の同居でまさにはまり役といった感じだったが、それに比べるとANZAちゃんのアムネリス様はやっぱり可愛らしい。普通の女の子が懸命に突っ張っているといった印象。可愛らしすぎて、ラダメスが死んだとアイーダを騙して彼女の本心を引きずり出す時の仕打ちなどがいまひとつ迫力不足。
 「シェルブールの雨傘」のマドレーヌみたいな役の方が多分彼女には合っているだろうなあと思う。

 でも、歌声はさすがなANZAちゃん。地声でばーんと歌うだけでなくファルセットへの切り替えでも不安定にならないANZAちゃん。
 宝塚版では、エジプトの女官が歌いながら登場し、真打登場として優雅で豪奢なアムネリス様が登場する場面。目の保養ではあったが、耳には優しくない歌声の場面だった。
「エジプトはすごい、エジプトは強い」を略してスゴツヨと宝塚ファンに揶揄されたこの場面。
 ところが。
 梅芸版の舞台の今回のすごつよ場面のこの流れ。歌が、歌が、歌がうまいーーーーーーー(@_@。
 宝塚版では歌がうまい娘役さんはエチオピア人女性役でエジプト女官役のすごつよ場面の歌はとにかく破壊的だったが、宝塚版でエチオピア女性だった歌うまの陽色萌ちゃんが、このエジプト女官の場面に入ってたりする。
 耳への印象の相違が笑いのツボになってしまったではないか。。。。。。。^^;


 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 ここまで書いたら力尽きたので、残りはまた今度^^;

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2009年9月11日 (金)

「The Musical AIDA」ーーー結局は何もかわってない

 平和ってなんなんだろう。

 「The Musical AIDA」のラストでアムネリスが「私が生きている限り、エジプトは二度と戦いに挑んではなりません」というのを聞きながら、「いつか人々は戦い始めるでしょう」というのを聞きながら、「我々は決して平和への希望を失ってはならない」というのを聞きながら、感動よりも皮肉な気分を味わうことになってしまう・・・・・・・・。

 エジプトは今後戦ってはいけないとアムネリスは高らかに平和を希求する歌を歌う。

 言うは簡単だ。
 テロの直後、「さあエチオピアを滅ぼしにいきましょう」というアムネリスの魅惑的な煽動に突き動かされたエジプト兵達は、エチオピアという国に壊滅的な打撃を与えた。
 テロ行為によってもたらされた復讐心を発散しする。大国である自国の王を小国のテロリストなんぞにみすみす殺されたという羞恥心による怒りをおさえるのに十分に満たされたであろうと思われるほどの強烈な攻撃。
 そしてもともとエジプトは大国。富裕な国。とりあえず復讐心を国民が満足させた後であれば、これ以上国境線を広げるための戦いはしないと宣言するのは、たいして難しいことでもあるまい。

 でも、平和の構築はおそらく困難であろうとアムネリスは歌う。
 そりゃ困難だろうと舞台を観ている私も思う。
 だって、この希求の歌を歌っているのはアムネリスとエジプト兵だけだもの。エチオピア人は国を捨てたつもりのアイーダ以外はこの場面にはいない。亡霊としてさえ登場してこない。アイーダ以外のエチオピア人が最後に登場するのは、壊滅的打撃を戦闘で受けた直後の、呪詛、悲嘆、狂気の場面だ。
 ついでに言うと、この最後の場面、エジプトの神官も不在だ。中央の神官の腐敗は、宝塚版よりも若干強調されている。中央に腐敗がはびこっているならば、地方にも腐敗がはびこっていることが容易に想像される。ということは、舞台上で直接描かれてはいないけれど、富裕な富は王宮やその周辺にのみ集中している、富が行き渡っていないであろう所は王都に遠かったりすれば多いだろう。

 「この命令の虚しさは充分に承知しています」というのは、つまりは、戦いの起こらない状態を阻害する要素が想定しうるということだ。
 つまり、それはどういうシナリオ?

 壊滅的打撃をこうむったエチオピアが、呪詛と憎悪の思いを伝え広げ、国力を取り戻す機会を得ることがあれば再びエジプトを狙う。戦闘行為によって、あるいは、テロによって。
 あるいは、地方で反乱が起こる。
 あるいは、エチオピアに対するエジプトの行動と大国化を見かねた他の国々が戦闘行為を起こす。

 そうしたことが起これば、エジプトは当然立ち向かうということになるわけで。

「戦いは新たな戦いを生むだけ♪」

 あの壊滅的打撃の戦いの直後の平和への希求の歌は虚しい。

 大国の人達だけが語る平和という言葉。
 支配者だけが語る平和という言葉。

 平和ってなんなんだろう。
 と再び考え込んでしまう。

 平和=戦闘のない状態(「消極的平和」の概念)
 平和=構造的暴力のない状態(「積極的平和」の概念)
 と、学生時代に習った平和の概念について書き出してみたりしてみた^^;

 ラブロマンス部分よりも政治劇としての側面をより強調するこのミュージカルは、エジプトとエチオピアの関係を、南北問題として見せる。
 南北問題=先進国と途上国の間に格差が存在する状態。
      その是正を困難にする構造的暴力が存在する状態。

 アムネリスの父であるファラオは、宝塚版よりも慈愛深い王であることが、その歌声によって強調される。演じる光枝明彦さんも、プログラムでのコメントによれば、このファラオに、プラスイメージとしてのケネディ大統領を思い描いているんだそうで。

 アムネリスはやがては父のような王になっていきたいと思うのだろうか。
 戦闘を望まない、慈愛深き王に。戦争を自国からしかけない、≪平和=消極的平和≫を求める王に。

 実際にはケネディは平和部隊という名の軍隊をベトナムに送り込んでた大統領だったりするわけだけど、任期途中に暗殺という形で退場したことにより様々なプラスイメージを後世に大きく残せた人だった。

 そんなこんなを考えると。
 ここで語られる平和という言葉が、非常に薄っぺらく感じられるのだ。
 わざとこの日を選んで観劇したわけではなかったんだけど、妙な日を選んでこの舞台を観てしまったせいで、はじめて宝塚でこの舞台を観た際に感じた違和感をなんだか一層感じてしまった・・・・・・・^^;

 とか言いつつも、キャストの変化によって生じた人物像変化をチケット代金分(3階後方貧乏席センター寄りでの観劇)十分に楽しんだので、そのあたりは別記予定。

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2009年9月 6日 (日)

ラブロマンスを堪能するなら「ジェーン・エア」必見!

 日生劇場2階センター後方で、娘と一緒に「ジェーン・エア」観劇。イギリスの19世紀の作家シャーロット・ブロンテの代表作「ジェーン・エア」をジョン・ケアードの脚本・演出で舞台化したミュージカル。

 私はこてこてなラブロマンスに耽溺し、娘は「松たか子がいい、松たか子がいい!!!」と言い、二人揃ってたっぷり幸せになれる約3時間。

 松井るみのセットと中川隆一による照明が、荒野とその中の屋敷で繰り広げられる愛憎の世界の光と闇を現出。


(主役二人雑感)

 実は松たか子さんは、ジェーンよりも、ブロンテ姉妹のエミリ・ブロンテの代表作「嵐が丘」のキャサリンの方が似合う人だと思っていた。見逃したことが未だに悔しい私。いつかなんかの形でまたやらないかな。
 しかし、松たか子という女優さんは激情の塊のような女が似合う人で、そしてジェーンというのはキャサリンほどには激情を露骨に表に出さないけれど、知性と教養、教育によって獲得した品と友人ヘレンとのかかわりの中などで獲得した心優しさという面、地味な黒ドレスに覆われて隠されているけれど・・・・・・・・・・・・・・・・・・所詮はやはり激情の女なのであった。だから、ジェーンがその内なる激情を吐露するいくつものナンバーはものすごく松たか子にあってたりする。

 私は実は松たか子は≪歌がうまい≫というカテゴリーの人とは少し違うと思っているんだけど、声の良さと曲と役がらのマッチング、彼女の歌が歌として独立してしまわず芝居歌になっているためなのか、一緒に見た娘は
「松たか子、歌がうまいよーーーーーーーー」
と激賛。

 対するエドワード・ロチェスター氏の橋本さとしさん。
 観劇前は「いまひとつ合わない役なんじゃ?」と危惧していた。ジェーンとの年齢差はないとはいわないけれど、ものすごく大きい年齢差には見えないし、ロチェスターにはかっこよすぎるような気もするし。

 でもよいのだ(笑)
 と、観劇後に結論。
 今までラブロマンスのヒーローをあまりやってなかったなんてあまりにももったいない。素敵だったあの場面この場面を思い出しながら、ついついにやにやしてしまう。ああラブロマンス好きの私・・・・・・。

 原作そのもののロチェスター氏を求めるなら多分、違うんじゃないかと思う。
 でも、ラブロマンスには大事なのは、愛ですよ!想いですよ!

 若いジェーンは異性としての男なんて知らない恋愛初心者であるのに対し、自分は過去に散々奔放に過ごしてきた日々を持っている。そんな彼が、今まで出会ったこともないようなタイプの女に惹かれてしまう。激情を秘めながらも、理性と知性でそれを覆い隠し、彼のほしがる言葉を語らせようとしても生真面目で妙に不器用な女。その女は本心はちらちらと露出しちゃうんだけど肝心の決定的な言葉はなかなか言ってくれない。そんな彼女を求めて、焦ったりして、いらついたりして、彼女の心を乞い求めるロチェスター。その、心を乞う姿が似合っているのだ。ラブロマンスのヒーローはこうじゃなくっちゃ!!!!!!!!!

 というわけで、実に好みで素敵だったのでありました。

 しかし、この二人。原作同様、「美人じゃない」「ハンサムじゃない」と言い合っているのは、違和感ありまくりですわ(笑)


(脚本雑感)

 それなりに長い原作なので、かなりのカットは入るだろうなとは思ってたのだけど。

 基本的に、ジェーンとロチェスター氏の二人の関係を浮き上がらせるためのカットとなっているので、これがないあれがないの類の不満感は意外と少ない。
 まあ、リチャード・メイスン役の福井貴一さんやブロクルハースト氏その他の役を演じる壌晴彦さんの使い方が実にもったいないなあとは思うけれど。もちろん、ピンポイントでも見せてくれるばっちり演技派の人達なわけですが。

 原作ではロチェスター氏が登場するのはジェーンが大人になってからなので大分先だけど。舞台では冒頭で二人が象徴的な形で出てきていて、この舞台がラブロマンスであることを最初から印象づけるようになっている。1幕は前半がジェーンの子供時代(子役が動き喋り、松たか子はナレーターのような形で出ずっぱり)、1幕後半はジェーンとロチェスター氏が出会って相手に惹かれる自分を自覚するようになるまで。それぞれの想いに関する導入部分が長いのも、ラブロマンスだぁぁと印象づけるような形になってる。

 なにせ、恋敵(????)ブランチ嬢の登場は1幕ではまだ出ない。2幕になってようやく。原作の後半部分の端折りが意外と多くて、その分、ジェーンとロチェスター氏の二人のロマンスの部分が大きく強調されてみえる。あまりにもはしょられ過ぎていて、結婚式の場面で、
(恨んで恨んで呪詛の言葉すら投げつけてしまったリード夫人との再会は無しかなあ。あれはジェーンがいろんな形で愛を得たことでかわったことを示すからいれてほしいエピソードだったんだけどな)
とちょっとがっくりしたんだけど・・・・・・・・・・入ってた(笑)リード夫人とちゃんと再会。ああいう形であのエピソードは突っ込むことが可能なのか。大ワザな改稿に原作ファンの私、大うけ^^; シンジュン・リバースの存在感はがくりと落ちたけれど。でも、短い時間でラブロマンスとしての軸を強調するためには、ブランチやシンジュンの存在感はある程度切り落とすというのは選択としては正解だと思う。

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2009年8月28日 (金)

「サマーハウスの夢」雑感というか報告・記録というか

 俳優座劇場、中ほどの列のセンターブロックにて観劇。

 再演を繰り返されているアラン・エイクボーン作の素敵な音楽劇。なのに、宣伝が少なくて未見の人が多いのが残念すぎる・・・・・という私も、4年前の公演では、公演時期を知った際に観劇スケジュールを組めなくなってしまっていて諦めざるをえなかったので、今回の再演をとてもとても楽しみにしていた。

 とても楽しくて可愛くて美しくて笑えて幸せになれる小品だった。
 物語「美女と野獣」という虚構が、画家ロバートの描く絵を介して、現実と混じり合ってしまい、そこから起きてくる、ちょっとほろりとするコミカルな物語。

(作品データ)

原題 DREAMS FROM A SUMMER HOUSE
作・作詞 アラン・エイクボーン
作曲 ジョン・パティソン
翻訳 出戸一幸
演出・訳詞 宮崎真子
演奏 後藤浩明(キーボード)、岡部磨知(バイオリン)、武内いづみ(バイオリン)


(あらすじ)
 ロンドン郊外の富豪のハクスタブル邸。長女アマンダの元・夫で売れない画家のロバートは、邸宅の裏庭のサマーハウスに、再婚したアマンダが新婚旅行で留守にする間だけ住まわせて貰っていた。アマンダ夫婦が急遽帰ってくることになり、屋敷を追い出されることになったロバートが泥酔し、自分の描いた『美女と野獣』の挿絵・ベルに歌いかける。 すると、目の前にベルが現れ、現実と物語の世界が混ざり合い・・・・・・・・・・。


(出演者雑感・ネタバレの嵐)

ベル(鈴木ほのか)
 メロディをつけないと、現実の人々とはコミュニケーションできない人。
 レ・ミゼラブル日本初演の頃からおなじみの役者さんなのに、あいかわらず、ピンクがかった赤い綺麗なドレス姿が美しく似合ってしまったりして、さりげなく年齢不詳の女優さんだな(笑)
 1幕時点で、次女メルは実は「子どもではない」と看破している、知的でもありいかにも女性でもある人。コミュニケーションが成り立たない時に表情がくるくるころころかわる姿が愛らしく可愛らしい異世界人。

バルドマー(米谷毅彦)
 美女に対する野獣。
 ロバートの絵が媒介となって、ベルとは時間がずれた形で現実世界に姿を突如あらわし、ベルのかわりに長女アマンダを自分の世界に連れ去っていってしまうことで、2幕が悲喜劇状態に・・・・・^^;

ロバート(畠中洋)
 現実とおりあって生きていく力にたけていない売れない画家。
 だから、「美女と野獣」の絵本の挿絵を描くにあたって、ベルの胸をでっかく描きゃいいんだろ、とやけになるような形でかろうじて現実に媚びる。
 現実世界の中では最もベルとコミュニケーションが成り立つ存在になりかけたかのように一時期は展開し、ベルとラブラブな幸せな関係を築けるかと思ったが、結局彼がベルに求める関係は現実とおりあえないことの象徴でもある。

グレイソン(石波義人)
クリッシー(執行佐智子)

 ハクスタブル邸の持主である世俗的夫婦。
 メロディでしかコミュニケーションが出来ないベルに振り回されてのドタバタの中で、少しずつかわっていく。

アマンダ(加藤忍)
 グレイソン&クリッシーの長女。音痴な我儘女。
 野獣の物語世界に誘拐されていっても、逆に彼の美しい内的世界をひっかきまわす^^; 観客大受け^^;
 メロディでコミュニケーションをかわすにはあまりにも不向きな人物なので、彼の安穏な心を壊してしまい・・・・・・・・・。

シンクレア(大原康裕)
 アマンダの再婚相手。生真面目青年。
 全然緊張というものをしない性格なのに、相手が自己中女アマンであるからこそ強いられる緊張感があり、それだからこそアマンダを愛しているのだという、世界に二人絶対いなさそうな特異な人(笑)

メル(山田里奈)
 グレイソン&クリッシーの次女。
 姉アマンダのかつての夫だったロバートにひそかに想いを寄せているが素直になれない。学校にも行かない、いけない、ひきこもりの女の子。
 メロディではない形ではじめてベルとコミュニケーションをかわす。
 実はベルを現実世界に呼び込んだのは、ロバートではなくメルの焦燥感であったのか・・・・・・・?

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