観劇(ストレートプレイ)

2011年10月29日 (土)

加藤健一事務所「詩人の恋」観劇

 初演は2003年。その後、2006年と2008年に再演され、今回の2011年版は第四演。
 初演はスケジュールの都合で見逃した。音楽座ファンの知人が絶賛する舞台だったので、次の機会があったらその時には見逃さないようにしよう、と思った。だから、3年後に再演の発表があった時には大喜び。うきうきしながら本多劇場に足を運んだものだった。そして、その後、再演のたびに、1公演1回、観てきている。再再演は本多劇場でもあったけれど、自宅からの行きやすさとか、ちょっと目先をかえてみたいという理由で、紀伊国屋サザンシアターでの公演の方を選択して観劇した。

 畠中洋さん目当てでチケットを購入した私、加藤健一事務所の作品は初体験。予備知識としてあったのは二人芝居だということ、シューマンの「詩人の恋」が歌われる音楽劇であるということくらい。あ、「美しき五月に」は高校生の時ドイツ語歌詞でおぼえたので今でも一番だけなら歌える。その程度のうすーい前知識で出かけたものだった。

(あらすじ)

 所はウィーン。老マシュカン教授は、ヴォイストレーナー。声楽家としては峠をすぎた状態。そんな彼の前に、かつては神童と呼ばれたピアニストのスティーブンが現れた。壁に突き当たっていて、ピアノが弾けなくなってしまい、伴走者への転向を真剣に考え悩んでいる真っ最中のスティーブン。彼へのレッスンのために、何故かマシュカン教授が紹介されたのであった。
 スティーブンはピアニストであるが、マシュカン教授は、彼に、シューマンの連作歌曲「詩人の恋」を全編歌いこなすことを課題とする。自分はピアニストであるのに、なぜ歌わねばならないのか、と強く反発するスティーブン。嫌々ながらもレッスンをはじめた彼であったが、レッスンを続けていくうちに、次第に様々なものをつかみ始める。マシュカン教授とスティーブンは、年齢も国籍も育った環境も全く異なる存在であったが、奇妙な不思議な友情めいた感情が生まれ始める。
 そして、長い年月を生きてきたマシュカンが、ずっと抱え続けてきた痛みの感情に、若いユダヤ人青年であるスティーブンは触れる時がきて・・・・・。

(感想)

 マシュカン教授の加藤健一さんも、スティーブンの畠中洋さんも、素敵な歌声で「詩人の恋」を歌いこなす。お芝居でのこのお二人のがっつり組む姿は嬉しい限り。緩急自在に、笑わせたり泣かせたりの姿を、世代の全く異なる二人の役者さんが、がっぷり組んで魅せてくれる。加藤健一さんって、すごい役者さんだなあ。そして、負けないエネルギーの舞台を見せてくれる畠中さんの活躍がすごく嬉しい。今まで観てきた畠中さんの舞台の中では一番好きなもののひとつだ♪今後も、何度でも何度でも再演してほしい。畠中さんは体型が華奢だから、お髭さえ生やさなければ、まだまだ当分の間は≪青年≫の役はビジュアル的にもおっけーのはず。声は精悍なままだしね。是非、まだまだ続けていってほしい。生真面目で非常に頑なで。時には我儘で傲慢で身勝手で、それでいて熱く激しく怒れる男でもある、スティーブンというこの役、畠中さんにぴったり。

 自分は、高校生の時に、音楽の授業で、この連作歌曲の最初の歌「すばらしい五月に」を歌ったことがある。
センチメンタルなメロディであり、センチメンタルな歌詞だと当時は思っていた。綺麗で美しいけれど、特に心に残ると思ったりすることはないまま、それでもドイツ語で一番は丸覚え。センチメンタル、ロマンチックだからこそ、シューマンよね、とか呟きながら、センチメンタルなムードの中で遊んでいた。

 だから、はじめてこの舞台を観た時、クライマックスの場面で流れるこの歌のあり方にびっくりしたんだ。
甘ったるいセンチメンタルな歌だと思っていたのに。
すさまじい勢いで、いろんなものを押し流していく。ただただ。激しいメロディの奔流に押し流され、茫然とさせられる。

 他にも素敵な曲がいっぱいあるのが嬉しくて、観劇後に図書館で「詩人の恋」のCDを借りて何度も聴きこんだ♪

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2011年10月26日 (水)

「隠蔽操作」と「果断」を観てきた

 シアター1010の後方センターブロック席にて、25日に「隠蔽操作」、26日に「果断-隠蔽捜査2-』」を観てきた。シリーズ物の二つのお芝居を、二日かけての観劇。(マチソワする人も多いと思うけれど、私はマチソソワ体力が無いので、二日に分けて観に行ったのだった。)

 新潮社刊の今野敏の警察小説が舞台化された作品。
 舞台装置は非常に簡素で、演出もさほど、舞台ならではの特徴的な部分はない。突然どっかから出てきた舞台企画を、無難に舞台上にまとめあげたといったようなイメージ。来年にも、上川隆也さん主演舞台があるらしいけれど、こういう完成度と緩さの作品が出てきたらちょっとがっかりかなあ・・・。

 主役は、上川隆也の演じる警察官僚の竜崎伸也。
 1作目の「隠蔽操作」は、中村扇雀が演じる伊丹俊太郎が、2作目の「果断」では小林十一が演じる戸高善信が、舞台の進行役となっている。小林十一は、なんかすっかり、ベジャールダンサー時代を過去のものにしてしまったという感じなのねえ。

 出演者に時間があいたら、小説のシリーズの続きの舞台化も企画されたりするのだろうか。プログラム掲載の対談の中で、上川さんが、3作目の「疑心」の恋愛エピソードが好きなんだと語っているのが気になる・・・・。私、「疑心」で恋情にとっつかまっている竜崎があんまり好きじゃないんだ・・・・(-_-;)

 舞台そのものよりは、プログラム掲載の今野敏さんとの対談を読む方面白かったりして。
 上川さんはウィキペディアを読んでいる人だったのね(笑)
 そして、相変わらず、オタクな趣味話でキラキラしちゃう上川さん。

 と、すっかり舞台感想からそれてしまっているけれど。
 強引に舞台感想に軌道修正。

 コテコテに生真面目な刑事を演じる竜崎の上川さんは可愛いので、ファン以外にはそれほど積極的にはすすめないけれど、ファンは観ておいて損は無いと思う(笑)ほとんどにこりともしない役で、笑うとあまりにも不自然ですらあるのに、周囲の状況をうまくとらえて笑わせてくれる。
 竜崎の妻を演じる斉藤レイさんは、コテコテ竜崎以外にはこの人以外絶対合わないわよねえといったムードの、しっかり者の可愛らしい奥様だった。

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2011年10月 6日 (木)

「アントニーとクレオパトラ」を観てきた

 彩の国さいたま芸術劇場大ホールに、蜷川幸雄演出のシェイクスピア劇「アントニーとクレオパトラ」を観に行ってきた。1階後方センターブロック。

 学生時代、戯曲を小田島訳で読んだ。好きな作品ではなかった。蜷川氏が何をもって、プログラムの中でこの戯曲を出来の悪い戯曲と断じているのかは知らないが、久しぶりに読み返してみて(今回は松岡訳で読んだ)、「ジュリアス・シーザー」という前身の物語があるからこそ、中年男アントニーの生き様の無様っぷりを描くこの物語が、奇妙な光を発するんだなあと、新たに発見して面白かった。

 アントニーはかつては光り輝いていた。ジュリアス・シーザーが死んだ時、カリスマ的な力を放出する演説で、人々の視線を釘付けにした。

 そのアントニーが、クレオパトラとの出会い等をきっかけにして、堕ちていく。

 自分はかつてはすぐれた者であったという思い、その深層には、より優れた男がいたのだという思い。それらの思いによる劣等感の中で彼はあがいている。劣等感があるからこそ、彼はクレオパトラを利用する。この女がいるからこそ、自分は堕ちたのだ。この女がいなければ、自分はよりすぐれた者でありえたのだ。

 現実とそれは違うことを、アントニーは本当は知っているから、彼はひたすらに空しくあがき続ける。

 生き汚い主役二人の、みじめな野心と情欲、そしてその敗北の物語。
 随分長い年月がたってからこの作品に再び触れるのは、ある意味、刺激的で面白くはあったかなあ・・・・・。

 役者さんでは、池内博之さんのオクテイヴィアス・シーザーが観られたのが、今回は一番面白かったかなあ。彼は、この手の古典物の二枚目に似合う精悍な顔立ちに、どんどんなってきているのね。

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2011年6月22日 (水)

「風と共に去りぬ」帝劇版と原作オタクの原作みーはー話

 帝国劇場で上演中の「風と共に去りぬ」を、2階B席上手側から観劇。

 舞台そのものにはあまり期待せずに出かけるという失礼な観客の私だったけれど、意外と^^;楽しんできた。

☆楽しめたポイント。

・舞台装置

 1幕のクライマックスであるアトランタ脱出のシーン。炎上が舞台的にちゃんと盛り上った雰囲気になってる(@_@。 こんなふうに出来るんなら、なんで、「レベッカ」の終盤でこれをやってくれないんだ?

 舞台美術のスタッフに松井るみの名を見ると、なんだかとても安心する(#^^#)(「イーストウィックの魔女たち」の乳房装置にはびびったけど)

 タラの農園の赤い土の広がりを舞台上に現出させている感じも良かった。

・音楽の良さ

 映画音楽流用はないけれど、醸し出されている雰囲気は似ているなといった曲調で、アイルランド移民の農園生活の土の薫りを感じさせる。


・スカーレットのレットとの関係性、スカーレットのアシュレーとの関係性がかなり丁寧にバランス良く描かれているように思われたこと。三人の配役がキャラ違いでなかったことが大きいかも。米倉涼子は、テレビドラマで見た印象では、さほど好きなタイプというわけでもない女優さんだったんだけど、スカーレットを可愛げのある女性として描出する分には持ち味が合ってたんじゃないかしら・・・・・。


☆原作との違いでびっくりした部分

 ゲティスバーグの戦いの後、休暇で帰省したアシュレーが戦場に戻る時。
 スカーレットに、メラニーを守ってほしいと頼む場面。
 この舞台のアシュレーってば、戦後の混乱の中でもメラニーを守ってくれと言うのだ。戦後の混乱でも守れと。そこまで言うか。鬼アシュレー(笑)原作アシュレは、守ってくれとは言うし、この戦争は負けるとは言うけれど、戦後の混乱の中でも守ってくれなんていう超具体的な言い方はしない^^; 

 他にもちょこちょこあったけれど、一番びっくりしたのはそこかな^^; 


☆原作オタクの日々

 「風と共に去りぬ」という作品にはじめて触れたのは、テレビで放映されたヴィヴィアン・リー主演の映画版。原作をはじめて読んだのは、中学生の頃。その後、何度も何度も読み返した。その後、宝塚歌劇でも何度か舞台を観た。帝劇ではミュージカル版を観た。映画はテレビでも映画館でも、何度も何度も見た。映画や舞台を見るたびに原作を読み返すので、もう何回読んだことやら???

 恋愛小説としては、最初は、スカーレットとレット・バトラーの関係性を軸にする物語とうけとめていたのだけど、何度か読み返しているうちに、アシュレ・ウィルクスという人の存在がとても面白く思えてくるようになった。
 原作では二章目で、スカーレットの母エレンの過去の恋の思い出が描かれる。そして、アトランタからタラに戻ったスカーレットは、母が死ぬ間際に叫んだ名が娘の自分の名ではなく父ジェラルドの名でもなく、フィリップという誰だか知らない男の名であったことをディルシーという奴隷から聞かされる。フィリップというのが誰でありエレンとどういうつながりがあったかについては、マミーは絶対に語るまいとしている。
 このエレンの抱く過去の恋への執着の描写が早い段階ではっきり明かされているのは、スカーレットが抱くアシュレへの執着の描写とリンクさせる意図があるように思われる。作者はエレンがフィリップに対して抱いた恋は夫ジェラルドに対して抱いた気持と異なり、唯一の本当の恋であったように描いている。生活や人生を共に出来ない、愚かさもあってゆえにこそ燃えあがってしまう、かなわないからこそ燃えあがってしまう本物の恋。ということは、作者はスカーレットのアシュレに対する想いもまた、本物であることを否定はしていない。そして、本物であったからこそまた、レット・バトラーの嫉妬心もかきたてるわけだし。単なる夢見がちな女学生の想いなんてものであったりしたら、レットはあれほどまでに嫉妬で狂ったりはしない。スカーレットのアシュレへの想いが本物の恋愛感情であったからこそレットは耐えられなかった。

 エレンの恋の描写が省略されてしまってエレンが単にスカーレットの母・完全無欠な女主人としてのみの描写にとどまると、スカーレットのアシュレへの恋の部分も印象不足になってしまうようで残念だな。まあ、ダイジェストになってしまう映画や舞台に、そこまで要求するのは無理だろうけれど。

 スカーレットはレットの前では、正直でいられる。飢餓の日々の記憶がつくりだす悪夢の話も打ち明けられる。一方のアシュレは、スカーレットを本当は高貴な気性の人で他のどの男も知らないが自分だけはそれを理解しているのだと言う。だからスカーレットは、彼の前では高貴な気性の自分でありたいと願い努力する。頼れて安心できて正直でいさせてくれる男。その人がいるからこそ自分は高くありたいと願ってしまうといった男。どちらの男も、愛の相手としては重要だなあ。

 そしてそれを思うと、レットって本当に馬鹿だわ。正直でいられる、悪夢の際に甘えられる相手であるというのは、アシュレに対する絶対のリード部分だったのに、みすみすそれを手離すんだもの。ボニーの暗闇恐怖症に関してスカーレットと対立した際に、スカーレットが悪夢に脅える姿をせせら笑う原作レット。あれじゃあ終わるよ。二人の関係の破綻は、一方的にスカーレットが悪いわけじゃないわよ。と、若い頃は特に思わなかった感想を今はレットに対して抱いている私・・・・・・・。

 悪夢の描写はこの舞台でも綺麗に抜けてましたね、そういえば。
 あの飢餓の悪夢は、戦後のスカーレットの性格をつくりあげる上で、きわめて大きい要素なのに。

 高校生の時、読書感想文への先生のコメントで、「読みこみが足りない。もっと重要なテーマがあるはずだ」と怒られたけれど、男女の描かれ方をどう読むかってのは「風と共に去りぬ」においては極めて重要なテーマですよね(笑)南北戦争や奴隷制度への語り口についても、勿論いろいろ思うところはあって、その部分も年齢や時代と共に感想が揺れ動いたりしますけれどね。「『風と共に去りぬ』」のアメリカ」(岩波新書)は、原作小説の中に散りばめられた黒人蔑視と差別感情、それらに複雑な思いを抱きながら原作小説や映画に関して言葉少なになるアメリカの黒人について真正面から分析している必見書だったな☆ そうした大いなる欠点も含めて、「風と共に去りぬ」という世界を何度も何度も読み直すのが楽しい。

 何度読み返しても、わかりづらいなあと思ってしまうのがメラニー。わかりづらいなりに私がうけとるメラニー像は、映画や舞台で描かれるものとは違うんだけど。
 メラニーは、この舞台においても、完全無欠な女性として描かれているのですね・・・。私は、映画版も含めて、その種のメラニーの描き方はあまり好きではなかったりする。原作メラニーってところどころ、結構とんでもない部分もあったりする。タラでスカーレットと軽く悪態つきあったりとか、ピティパット叔母さんへの容赦なさとか。これはひどい、ひどすぎる、と思ったのが、スエレンとウィルの結婚を機にニューヨークに移り住もうとしたアシュレの決意を翻させるところ。スカーレットがアトランタの製材所を任せるという形でアシュレの人生を滅ぼすにあたって、メラニーが積極的に味方しちゃってる^^; 私は、メラニーは単に、性善説を信じる気質で、育ちが良くて文学的教養があり、でも最大の美点は努力家である女性なんだと思うのだ。善良ではあるけれど、娘らしいきゃぴきゃぴした感も、内気さの底に見え隠れしていると思うのだ。邪悪や悪意に関しては無知だし、時代感覚、政治感覚といった部分は夫まかせだったりして、その部分では彼女自身の思考はかなり浅い。そばにいたら結構うるさくてうざいと感じさせられそうな部分もあったりする。でもそういう不完全な部分も含めて面白い女の人だと思ってるんだけど・・・・・・舞台やら映画やら他作者の続編やらを読むと、メラニーって私の受け取り方とは違う描かれ方であることが多いなあ。

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2011年5月 5日 (木)

朗読劇「私の頭の中の消しゴム」ーーーらぶすとーりー満喫

 今月頭の時点では見送る予定だったのだけど、チケットをお譲りいただいたので、銀河劇場で、朗読劇「私の頭の中の消しゴム」吉野圭吾&紫吹淳の回を観劇。1階前方上手ブロック中央寄り席。良いお席をありがとうございました。

 映画やドラマ等は未見。ストーリーについてはおぼろげに内容を聞いていて、なんとなく、「アルジャーノンに花束を」と「智恵子抄」を混ぜたような雰囲気をイメージしつつ劇場へ。

 以下、愚痴とみーはーの両方を吐きだします。
 愚痴部分を避けたい方は、だーっとスクロールして下さい。


★愚痴編

 実は、この物語は好みとは違うカテゴリーなんじゃないかという予感がおぼろげにしていた。
 重い病におかされた妻、彼女に献身的に尽くす夫。泣いて下さい泣いて下さい感動して下さい、みたいに宣伝されてるような気がする。闘病物でこれをされると、私は泣くよりもひくことが多いのだ・・・・・・・・^^; 観劇見送りにしようと当初思ってたのは、そのへんが原因だったりした。

 予感は必ずしもはずれではなく。
 周囲からすすり泣きが聞こえる中、あらら、私ってばすごく冷静・・・・・・。
 出演者の誰かさんの苦悶の表情を頭にこびりつけたいと思う瞬間が何度もあって、超前方席でオペラグラスを使うような爆裂みーはー客をやってたあたり、完全冷静とはどうにも言い難いとは思うけれど。
 
 とりあえず、三点ほど、見ていてずっと引っかかり続けていたことを。

1)告知の状況

 その病気の告知を、病人本人ただ一人に対してするんですか!?
 でも、重大な症状はわりとすぐにあらわれてきている。周囲に、迷惑をおよぼしかねない症状。仕事に明らかに支障を引き起こす症状。火事や事故などに直結しかねない症状。鬱に陥って自殺に追い込まれても不思議ではない絶望。本人だけでなく、家族に対しても告知しておかなきゃ非常にまずくないですか?

 実際、薫は半年、たった一人で悩んでいる。その悩みを医者は放置している。
 カルテ見て、家族に連絡とって、今後について話があるので患者に同行してほしいといった働きかけとかはしないの? 今まで出来ていたことで出来なくなることが増える、それに関して本人の意思によるコントロールが効かないという病気であるのだとしたら、家族に生活上の注意事項を指導することって不可欠でしょう?
 すぐには家族に知らせたくないという薫の意思もそりゃあるんでしょう。でも、一人で放置は、あまりにも危険すぎる。ましてや半年。病状進行には個人差があるから医者は悠長に構えてしまってたんだろうか。告知の後の進行はかなり急激のようにしか見えないが。

 告知にこういう状況あって有りなの???????????と納得いかないまま物語の進行を追う時間が長かったがゆえに、幸せな日々ががらがらと崩れていく様に対して、何か距離を持って見てしまう状況になってしまった・・・・。


2)仕事に関する医者のアドバイスは妥当なのだろうか

 そして、脳を刺激するためには仕事はやめない方がいいと、医者は言う。
 なるほど、脳への刺激は病状進行を遅らせる助けになるかもしれないし、旧知の友人・仲間との関係を安易に断たないことも重要だろう。
 ただ、薫の仕事って、ルーティンワークをひたすら繰り返していくという類の仕事ではない。

 会社に事情を話して、配置転換などの配慮を求めることは必要に見えた・・・・・。病気が進行してしまっているのであれば、他会社からの電話をとって担当者に用件を伝える、他会社と折衝するといった業務を、以前とまったく同じような形でまかせるというのはもはや不可能であるように見えた。
 病状を正直に申告すると正社員からパート社員への転換を求められかねない事態かなあ・・・・。本人の意思で退職するように追い込まれること必至かな。

 結局、浩介が薫のいない所で会社に状況を伝え、そして薫は浩介に相談せずに退職願を書く。
 もっといい方法はなかったんだろうか。

 医者は、今の仕事はもはや続けられない症状であるとの診断を出して障害年金受給の手続きをすすめ、脳への刺激に関しては別手段を考えた方がいい状況だったのではなかろうか・・・・・・・・。


3)美しい最後の日々

 綺麗な物語であったことへの違和感も。
 浩介って、下の世話を長期間し続けるという状況にはならないんだな。薫は浩介の前から姿を消し、実家で暫く過ごし、それから施設へ。
 介護って育児の何千倍も何万倍もずっと大変。育児における世話は、期限つきの世話だけど、介護における世話は何年なのか何十年なのかわからない世話だもの。浩介という人は、そこまでの絶望は背負わされずにすんだ。そのあたりが捨象されたからこそ、綺麗な精神的関係でいられたってのはあったんだろうなあ、とは思うのだった。

 このあたりの綺麗さは、脚本家が若い男性で、病身の家族への介護とは距離がある立ち位置であることに起因してたりするのかな?
 実際に介護に携わったり、この病気にかかわったりしている人にとっては、この物語の美しさはどんなふうに見えるだろうか?完全虚構だからこそ、異世界ファンタジー(???)として楽しめる、といった感じかな?


★みーはー編

 ものすごく前方の中央寄り席でオペラグラスを何度も使用。オタクな客ですみません^^;

 愚痴ったり悪く言ったりするために足を運んだわけでは勿論ないのです。
 劇場に足を運ぶからには、貪欲に、自分にとって楽しい部分を探して、その部分を楽しみつくしますとも。

 吉野圭吾くん出演。その部分を楽しみつくそうではないか。
 と、気合いを入れて出かけたけれど。
 気合いなんて全然いらなかった。面白かった!楽しかった!その感想の言葉は、このお芝居を見終わった人から一般的に出てくる言葉とはかなり違うような気はするけれど^^;

 好きな男優さんが、二人芝居でラブストーリーをやってる。
 それを観ることがもたらす破壊力ってこんなにすごいんだ!!!!!!

 ≪らぶすとーりー≫なんですよ!どっぷり恋愛してるんですよ。彼が恋愛をここまで正面切って演じるのって意外と少ないよね!?
 「Love Letters」があったでしょ?と言われたけれど。あれは私の中では、青春物・人生物のカテゴリーのドラマであり、恋愛物のジャンルとは微妙に違うのだった。アンディーに想われるメリッサになりたい、なんて全然思わなかったし^^;;;
 彼の恋愛物といったら、「とってもゴースト」の服部光司までさかのぼらないといけないかしら? 「屋根の上のヴァイオリン弾き」でのホーデルとの不器用な関係とか「暗い日曜日」のアンドラーシュが他の二人とつくりだす不可思議な三角関係とかでも、どっぷり恋愛はしているけれど、恋愛物かと問われると違うような気もするし。

 だから、堪能しましたとも。そうかそうか、こういう部分ですごく楽しめる舞台であるとは、想定外だった。
 前半ツンデレ。後半は愛情ダダ漏れ。きゃあああああ☆♪☆♪☆♪☆♪☆(←壊れてる)ツンツンしている部分の物語がものすごく長かったことにもだえまくりましたわ♪

 舞台には、まず、下手から彼・浩介が登場する。
 彼は読み始める。彼女・薫の日記を。
 薫は、いかにもな若いお嬢で、日記に書かれているのはいかにもな若い女の子ならでは・・・・・・・。
 上手から彼女・薫が登場する。対抗して彼の日記を読み始める。
 いかにもな若い男の子ならではの、ぶっきらぼう文章。仕事メモ。腹減った。

 その後、二人は、舞台上に用意された椅子に座り、自分の日記を交互に読み始める。
 パルコ劇場の朗読劇「LOVE LETTERS」は、男性が下手側、女性が上手側と、椅子の位置が固定されていたけれど、この「私の頭の中の消しゴム」における椅子は固定位置ではない。立って移動してお芝居することもあるし、すわる椅子は入れ替わったりもするし、舞台上に一人だけスポットがあてられたりすることもある。

 薫は社長令嬢のお嬢さま。絵を描くのが好きでいつもスケッチブックをかかえている。勤め先の会社で、カズヤという既婚男性と不倫の恋をしていて、それをようやく断ち切ろうとしているところ。
 浩介は、ブルーカラーの現場労働者。女の子が好みそうなお洒落なレストランなんて知らない。行きつけの屋台の居酒屋でおでん食べたり、バッティングセンターで打ちっぱなしをしたり、テレビでプロ野球番組つけて巨人を応援したり。そんな日々。「だから原はダメだっつうたんだよ!」と唐突に怒りを叩きつける口調を彼がするのを見るのは面白いなあ。衣装はブルーカラーの人には見えないし、佇まいも若干違うような気もしないでもないけれど^^; シャツの一番上のボタンをかけない着方が、ほんのり色気があって似合ってるよねええ!!!(←壊れてます。見逃して下さい^^;)

 住む世界が異なる二人の出会いは、互いへの反発から始まる(笑)
 しかし、反発しながらも、いつしか二人は惹かれあっていくのだ。恋愛物のセオリーの通りに。いつしか、なのか。台詞だけとってみれば、実は最初から、という解釈も可能かもしれないけれど、吉野圭吾&紫吹淳の演技は、徐々に徐々に惹かれあっていくという芝居としてつくってますよね。

 が、すむ世界が異なるわけだから、障害もいっぱい。
 相手に対して一歩踏み出したい素直な薫に対し、その一歩を踏み出すことが怖い浩介。その恐怖の背景には、彼の家族関係におけるトラウマがある。
 お嬢さま・薫は、中途半端に空気を読んでひいたりする人ではないので、無遠慮なほどにずかずかと踏み込んで彼のトラウマを粉砕していく。
 彼の、人との接し方がかわっていく。強引に踏み込んできて、彼の人に対する許容力を強引にひろげた彼女。一時は避けずにはいられなかった彼女だけど、もう避けて通ることは出来ない。
 
 彼は認める。彼女が大事な人であること、もう決して離れられない人であることを。

 こんな話だったのね、油断してたわ。
 もだえどころがいっぱいでいっぱいで、もうどうしたらいいものやら。

 銭湯でのすれ違い、いいですねえ。明らかに惹かれあっているけれどわかりあえてはいない二人。彼女の方が自分の思いに対して素直で、彼はツンツンツンツン。
 居酒屋での再会もいいですねえ。「見りゃわかんだろ」連発。一瞬、内容を聞き逃しそうになったよ、そのツンツン口調。ツンツン口調なのに、言っていることが素直だ。まああああああああああ、あんなに素直じゃなかった彼がようやくここまで言えるようになって。口調はアレなところが可愛くてしょーがない。どうしよう・・・・・・。

 「パスタうめえ」の言い方も可愛い。

 病におかされた薫に、自分の名ではなく昔の男の名で呼ばれてしまう、その絶望の表情もいいねえ♪ そして、それすらをも受け入れようと痛ましい決意をする際の表情もイイネイイネ♪

 終盤で、薫が「愛していると言われたことがない」と言ったのを聞いて、思わず、今までの流れを脳内再生した。そ、そーいえば・・・・・!!!(笑)後半展開は、前半とはうってかわって表情、態度にいろいろダダ漏れだったので、言葉としてのそれが無かったことなんて、全然気づいてなかったよ。。。。。

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2011年4月 2日 (土)

「国民の映画」とナチスの≪悪魔の所業≫

 パルコ劇場で三谷幸喜新作芝居「国民の映画」をプレビュー初日に観劇した。中央通路沿いのH列のセンターブロックという、めちゃくちゃ見やすい座席位置だった。

 観劇したのは、3/6(日)のプレビュー初日だったのだけど、ネタバレせずに感想書くなんて不可能だし、終盤の展開について物思う部分が沢山あって感想を頭の中でいじくりまわしている状態だった。一月近くたった今になってようやく感想文。

 当然、ネタバレしまくってますので、これからご覧になる予定の方は注意して下さいね。

◆チケット

 前売り段階で全然チケットを買えなかった。こんなにチケ難とは予想してなかったのでびっくりした。「12人の優しい日本人」に比べれば楽勝だと思ってただけに・・・・。
 でも諦めたくはないので、当日券電話に連日電話かけしちゃうぞーーーと、覚悟をきめてた。
 最初のチャンスはプレビュー初日。
 プレビュー初日なんてつながるわけないじゃん!とは思ったけれど、チャンスがあるならとりあえずそれには食らいつかなければ。使えるチャンスは一つでも多く使わねば。
 と思いながら電話かけ続けたら。
 つながったーーーーーーー!!!!
 キャンセル待ちではなく、どうやら、座席に確実にすわれそうな感触。

 この時は、その後、当日券予約方式が変わる事態も、空席大量の日が発生する事態も、、想像もしなかったなあ・・・・・・・・。


◆観劇前期待

 観たかった理由は、キャストへの興味よりは、テーマへの興味ゆえだった。

 物語の軸となるのが、ナチスでメディアの検閲監視をするゲッペルス。最高のスタッフとキャストを使って≪国民の映画≫を作ろうとし、催されたパーティーに映画人やナチス高官達がやってくるという群像劇。

 時代の空気というのが、どんなふうに描かれることになるんだろう。登場人物には、リーフェンシュタールもいるらしい。「民族の祭典」等で、ナチスのプロパガンダ監督として記憶される女性。ナチスが文化面でつくろうとする時代の空気に関し、積極的に加担した映画人として後世に名を残すことになってしまった女性。

 ナチス高官や、ナチスによる時代の空気づくりに積極的に加担した映画人達が、主役になる物語。

 これは是非とも見てみたかった。
 外側から、後世から、彼らをシンプルに批判するのではなく、彼らをシンプルに敵役にするのではなく、彼らを主役として描く物語であるならば。

 映画人たちがなぜナチスをファシズムを支持していったのか。悪魔の所業と後に言われてしまうようなナチスの政策に、なぜ消極的に加担してしまったのか。なぜ加担するような空気を自らがつくることに協力していったのか。正しいことと間違っていること、それらへの日常の感覚がいかに容易に麻痺しうるものなのか。そうしたことが、日常の一幕の中で、登場人物に共感出来てしまうという恐ろしさの中で語られることになる?

 期待を持って、チケ取りをし、劇場に出かけた。


◆≪悪魔の所業≫のわかりやすさ

 そういった意味では、若干、期待しすぎてしまった面もあったのかもしれない・・・^^;

 ゲッペルスの従僕のフリッツがユダヤ人であることが劇中で明かされた時、終盤描かれることになるであろう崩壊は、そのことがきっかけになるであろうことは、まず予測がついた。
 登場人物達は、歴史オタク以外にはものすごく一般的というわけでもない人達なので、ラストでは、彼らのその後というのが一人ずつ順番に語られていくことになる展開以外はありえないな、というのも予測がついた。

 予測がついても、なおも、どうまとめていくんだろう、どう展開させていくんだろうとわくわくしながら見守った。わくわく、というとちょっとヘンかな・・・・・。ナチスが今後展開していくことになるユダヤ人政策について、ナチスに消極的に加担している映画人・文化人達が、どんなふうな反応を見せることになるか、それがどう描かれるかを待っていた。

 そういう意味では「あれ?」という感じだったんだ・・・・・・・。

 フリッツがユダヤ人であるという、知る人ぞ知るの事実を、女優ツァラ・レアンダーがうっかり口にしてしまったことで、パーティーの空気が突如凍りつく。
 ナチスの政策、これから展開されることになる悪魔の所業が、非常にわかりやすい形で語られる。それが、人道に反する行為であること、人として心理的に受け入れがたい行為であることが、わかりやすい。わかりやすすぎるかもしれない。フリッツが観客にとってとても嫌な人物であれば、シンプルにわかりやすすぎるという構図にはならなかったかもしれないけれど、フリッツは場の空気を見ながら誠実に行動する人であり、さらに、ゲッペルスの映画好きをその知識によって裏からささえているという意味で映画人たちにとっては重要な人物として描かれていた。失うにはあまりにも惜しい人として描かれたその彼がこれから迫害されることになる、絶滅させられる一人になるという図。
 そして、映画人たちは、そのナチスの政策に対し、感情的に反発する機会を与えられた。

 ある意味、わかりやすい二項対立に見えなくもなかった。
 正しいことと間違ったことに関する感覚の麻痺という部分は、大きくは描かれなかった。

 小さくは描かれる。
 ゲッペルスの妻マグダが最後にユダヤ人フリッツについて語る言葉が内包する、静かなる日常の恐ろしさ。
 自分の居場所を確保するためにナチス高官に必死におもねっていたヤニングスが口火を切らなければ、おそらくは、ツァラ・レアンダーとグスタフ・フレーリヒという役者は、それぞれの思いでゲッペルスの誘いを断ることはしなかったであろうなと思われる状況の皮肉。場の空気にのるという形が提供されたからこそ行動が出来たキャラクター。
 反骨の人として登場していたはずの作家ケストナーが、映画人達がゲッペルスに感情的反発を見せていくその場の空気に同調せず、権力者にすりよることを自嘲しながらその場に残るという皮肉。
 感情的反発の口火を切ったはずのヤニングスのその後は、結局は、ナチスに協力した映画人として後世に記憶されることになるのだという皮肉。ヤニングスの見せる感情的反発は夢物語のようなもので、最後の語りの中でその後のヤニングスの生き方が結局どういったものであったかが悲しい形で語られてしまう。

 印象的な場面をあげればきりがない。

 でも、贅沢で申し訳ない。物足りなかったんだ。
 正しいことと間違っていることを、明確に区別して判断できる状況というのは、実はそんなに多くはない。

 作家の高橋源一郎さんが、Twitterで昨今の時代の空気について興味深いことを言った。

『凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を暑く語ります。それは、確かに「正しい」のです。しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。』」
『気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。』」

http://togetter.com/li/114133

 人は、正しいという思いから実は恐ろしいことができる。正しいという思いが同調圧力になって、恐ろしい時代の空気がつくられる。
 善と悪なんて実は簡単には見極められない。
 だからこそ、見極められない状況の中での映画人達の混沌を、私はもっともっと見たかったんだと思う。観客の私までもが、善と悪を見極められなくさせられてしまって誤った政策を正しいと信じかけてしまうほどの混沌を観たかったんだと思う。


◆キャスト雑感

 といった感じで、物語構造への若干の物足りなさは残るのだけど。
 でも、テーマが、今の時勢を考える上であまりにもマッチングしてしまうようなテーマであったからこそ、観劇後、何度もこの舞台のことを思い返した。

 役者は力量のある人が揃っていて見ごたえがあった。

 特に素晴らしいと思ったのは、ヤニングスの風間杜夫さん。自己評価が高いが他者からの低評価におびえつつその自己評価も脅かされながら、権力者におもねる。緩急自在に舞台上に存在する。こんなに巧い役者さんだなんて今まで知らなかった・・・・・・・・(@_@。
 ヒムラーの団田安則さんは、舞台上での存在感の強弱の付け方がとんでもなくうまい。 ケストナーの今井朋彦さんの、知識人ならではの強さと知識人ならではの弱さ。

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2011年2月 5日 (土)

「LOVE LETTERS」を観てきた

 パルコ劇場前方センターブロック下手側席にて、朗読劇「LOVE LETTERS」を観る。
 吉野圭吾くん&タニちゃん(大和悠河)の組み合わせ。


◆読書と想像

 原作戯曲は数年前に読んだ。多分、好きな役者さんが出演することになったのがきっかけだったんだと思う。結局その時は行きそびれたのだけど。戯曲は面白いと思いながら読んだ。男性アンディーよりも女性メリッサの方に感情移入した。好きなタイプの演技者が演じたらものすごく面白いことになるんだろうなと思った。逆に、好きでないタイプの芝居をする人が演じたら、アンディーが俗っぽく見えたりメリッサが我儘に見えたりしていらいらさせられることになるだろうなあとも思った。過去のキャストを見ていると、いろんな色の役者さん、舞台人が演じているようで、想像するだけでもわくわくする。役所広司さん&大竹しのぶさん、石井一孝さん&七瀬なつみさん、佐々木蔵之介さん&中嶋朋子さんの組み合わせは、きっと私好みのタイプのお芝居だったんじゃないかしら、と想像中。上川隆也さんや岡田浩暉さんのアンディーってのも見てみたかったな。ロビーに過去キャストの写真がずらりと掲示されていて、とても面白かった。贅沢を言うならば、各公演1枚ではなく、一幕と二幕で二枚ずつ掲示してくれればいいのに。若き日を描く一幕と壮年期・中年期を描く二幕では衣装が違ったりするので。


◆アンディー

 吉野圭吾くんは、色物とかダンサーとしての面で注目されることが多いけれど、私は演技者としての彼が好き。考えて考えて考え抜いて役作りをしながら演じる男に人間的な部分をどんどん加味していく彼が好き。その思考の部分が表に見えすぎるような気がしちゃうこともあるけれど、それもまた楽しくて面白いと思ってしまうあたりは、ファン目線の私なのであった・・・^^;

 舞台登場時に衣装・扮装を見て「こうくるのかーーー(笑)」とまずはうけた。
 長めのストレートヘアの眼鏡くん。一幕の若者時代は白いカーディガンでふちの部分が青。なにその妙なカジュアルルック!? 普通の男の子。でも頑張ってどっか気負って無理している。少年ならではの上昇志向の気負い、背伸び。それらを表現するための格好。

 物語は、二人の主人公の小学二年生時代からはじまる。
 メリッサのタニちゃんが本を片手で持ってもう片方の手で支えるといった態勢で、足組んでスタイリッシュにかっこよく座っているのとは対照的に、アンディーの圭吾くんは、本を両手でがっしりと持ち、視線はひたすら本に向かうといった形で、成長途上の気負いまくりの生真面目少年くんを表現する。少年時代・青年時代を演じる彼の声は、基本的に抑揚が無い。一見、棒にもうつりかねないような、たどたどしい抑揚の無さで、生真面目少年ぶりを表現する。生真面目なんだけど、とても健康で健全な家庭環境で育ったということ、それこそがメリッサを生涯惹きつける要素なんだということもわかる。メリッサにとっては、健康で健全な真っ直ぐな真面目な男の子が、ずっとずっと、文通という形を通して自分に関心を持ち続けてくれたことが、奇跡のような僥倖だったんだよな、と、不安定少女メリッサに感情移入しながら、アンディーの健全さ、普通さをまぶしく眺めてしまう観客の私。基本的には抑揚に欠ける喋り方なんだけど、言葉に表現できない思いは内にあふれまくっている。たまにそれが声の抑揚にあらわれてくる。少し自分に自信を持てた時などに。二人の位置関係において、これに関しては自分を上においてもいいんじゃないかと思えるような局面において。でもすぐにそれはメリッサによって打ち砕かれたりするわけだけど。メリッサの奔放さに若く幼いアンディーは怒るけれど、その怒り方も幼くたどたどしい。が、一幕ラストでそのたどたどしい口調に少し変化が生じる。手紙を書くという行為の自分にとっての意味について、彼は、少し不器用ながらも誠実に熱く語る。それまでに無かった声の熱さ。しかし、メリッサはまたまた彼の熱い心を打ち砕く行為に走る。

 二幕。海軍入り。日本での真剣な恋に破れての帰国。法律関係の仕事をはじめ、政治家を目指し、結婚し子が何人も生まれ、そして、多くの部下やボランティアの助けで成立する政治家生活。メリッサとかかわりの無い場所で、安定と幸福と成功を手に入れる彼。
 喋り方は明らかにかわっている。少年時代のたどたどしい抑揚のない口調の彼はもういない。幸せなはずの成功者ならではの自信を感じさせる抑揚のある声。しかし、少年時代の彼の抑揚の無い声の裏には、あふれまくった感情の渦があった。そうした感情の溢れ方はもう彼には無い。自信と安定を手に入れたにもかかわらず、彼は何かを失ってしまった。抑揚ある口調の裏にはそんな空虚さも見え隠れする。

 すべてが終わってしまった時、大人の彼の抑揚のある喋りの裏に、ようやく、彼の思いがしっかりとあらわれてくる。その声の抑揚とその心情に、はじめて、バランスが見える。


◆メリッサ

 今まで、タニちゃんの舞台については、元気溌剌キラキラ系は素敵だけどシリアス系についてはあまり心を動かされたことがないなあとか思ってた私。だから、メリッサってタニちゃんにはどうなんだろう????と思っていたのだけど。

 すみません!!
 タニちゃん良かった!!!

 アンディーの圭吾くんが、年齢や社会経験度に応じて喋りの抑揚の付け方を大きくかえてきていたのとは対照的。タニちゃんのメリッサの喋り方はずっと一緒。
 そのかわらなさぶりに、成長できなかった≪少女≫を感じさせられる。

 最初はアンディーにとっては少し大人びた少女であったメリッサ。
 彼女は、当り前のように健全で健康な家庭生活を享受しているアンディーとは全く異なった体験を重ねてきている。はっきりと言及はされないけれど、母親の再婚相手である男からの性的虐待を受けていた可能性を感じさせる部分も。母の再婚相手に関する言及の仕方と言及の少なさに垣間見える不自然さ。カウンセリングをすすめられるほどの不安定状態。異性に対する肉体的な積極性と精神的な内気さの大変奇妙なアンバランス。

 アンバランスの中で、狂気と正気の狭間で綱渡りを続けている彼女には、外からくるものを受け入れながら自分を成長させていくエネルギーは残っていないから、彼女は全然成長しない。30代になっても40代になっても50代になっても、霊になってもなお、ずっとずっとずっと少女のまま。


◆まとめにならないまとめ

 といったような感じで、期待通り、大変面白かった二時間強の時間。

 文章でのみでしか知らなかった「LOVE LETTERS」という作品にようやくようやく出会えて、作品のファンがいろんなキャストでこの舞台を観たいという気持が、ようやくようやく本当にわかることができた。今までは想像だけだったから。
 やっぱり他の人でも見ておきたかったなあ、という悔しさもいっぱいだ。そうすれば、今回の二人がこの物語にこめたものがもっとよく理解できたと思うので。

 まあそれがなくても、贔屓の彼がこの戯曲でアンディーという人の言葉を読むにあたって、それぞれの年齢ごとにどう変化をつけていくか、そう変化させメリハリをつけていくのか、自分の声だとそれはどんなふうに表現しうるものなのか、ということを、短い期間の中で脳みそフル回転で考えたんだろうなあ、そして全開で考えただろうけれど多分、期間も短かったことだし、他の人はどうだったんだろう、みたいな余計なことを考える暇はほとんど無かったんじゃないかしらん、とか・・・・贔屓の彼の裏の思考を勝手に想像するのも楽しい。この役に関するインタビューで、どんなふうな答えが出てくるのか実に実に楽しみだな。

 演劇好きは、いろんな役者さんでこの朗読劇を観ながら、いろんな役作りパターンを観たり比較したりするのが本当に本当に、癖になるように楽しいんだろうなあ♪ いや、これは本当にはまるよなあ、としみじみ思った。


◆おまけ
 
 今回の出演者の写真入りのプログラムは夏発売とのことなので、今まで使ったことがなかったパルコオンラインショップの使い方をチェックした。
 今回、購入を見送った「LOVE LETTERS 20th Anniversary パンフレット」がやっぱりほしくなっちゃった。青井陽治&大竹しのぶ対談とか、今までに出演した全カップルの舞台写真って、豪華だなあ・・・・・。結局、夏にプログラムを各1冊・計2冊買うことになるかも。

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2011年1月12日 (水)

「十二夜」を見てきた

 シアターコクーン2階席最後列で「十二夜」を観劇。

 「十二夜」はシェイクスピアの喜劇では一番好きなものの一つ。
 主演・松たか子と聞いてうきうき。二番目に石丸幹二さんのお名前ってことは、オーシーノ公爵が多分石丸さん、似合いそう♪とわくわく。

 潤色・演出・美術・衣裳が串田和美。

 舞台装置の色が綺麗。
 喜劇の楽しさよりは、郷愁めいたものを感じさせる、寂しげで哀しげな不思議な色合い。そして、その寂しげな海辺にやってきた、古楽っぽい音色を奏でる楽隊が、「十二夜」というはちゃめちゃなロマンスでもあり喜劇でもあるその作品を上演しはじめる。楽隊の奏でる音も、明るさよりも郷愁めいた不思議な寂しさが前面に出た感じ。石丸さんがサックスを演奏しているのがなにげに嬉しい♪

 展開される物語は、若干冗長でスローテンポではあるけれど、ヴァイオラ(偽名シザーリオ)と兄セバスチャンの二役の松たか子がすごく良いからそれほど気にならない。松たか子の舞台姿は、声に不思議な力があって、2階席後方で見ていてもその引力は全く減じない。

 オーシーノ公爵には、ファンサービスなのか(笑)入浴場面あり。シザーリオとのデュエットの場面もあったりして、石丸さんファンは必見かも♪オーシーノとしての印象は、場面の少なさもあってなんとも言えないような気もしたけれど。
 オリヴィアのりょう、綺麗♪
 荻野目慶子の舞台姿も年齢不詳だなあ。プログラム写真を見ると実年齢との違いを感じないんだけど、マライアとして舞台上に存在する彼女は、コケティッシュで可愛らしい。楽隊の彼女のちょっとはっちゃけた雰囲気も目をひく。

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2011年1月 7日 (金)

銀英伝の舞台、観劇報告走り書き

 舞台化された「銀河英雄伝説 第一章 銀河帝国編」初日を、青山劇場の2階後方下手側席で観劇。

 原作については・・・・・・・・私は、帝国よりも断然、同盟側のキャラ達が好き。
 「帝国のキャラでは誰が一番好き?」と問われたら「うーーーーーーーーーーん、鉄壁ミュラーかしら」とか答えるような私は、今回の舞台については、キャラクターへの思い入れはそれほど強くはありません^^;;; 

 でも、帝国側の物語については、原作2巻のリップシュタット戦役のあたりは一番面白いとは思ってる。
 しかし、舞台化と聞いた時、真っ先に思ったのは、
「艦隊戦をどうするんだ?全部、映像表現か?????」
という疑問と不安だった。これがクリアできなければ、銀英伝は銀英伝でないよなあと思うし。

 といったような感じで見に行った初日舞台。
 ざっと見まわした感じだと、満員の客席の95%以上は女性かな。
 もっと男性比率が高い客席を想像していたので、少し意外。

 某所で銀英伝好き友達あてに走り書き報告文を書いたので、それをちょこっと推敲してこちらにも。
 ネタバレたっぷりなので、舞台をこれからご覧になる方は、このへんで足止めしておいて下さい。記憶走り書きメモなので、いろいろと記憶がとんでいる部分も多いです^^;

(第1幕)

幕があがると、舞台上に大勢の黒い衣装のコロス。
行進のような踊りと、銀河帝国の歴史語り。
声を合わせる練習が相当に不徹底みたいで、ヒアリング能力必要。

アスターテ会戦にはミッターマイヤー&ロイエンタールの双璧も参加してる。
舞台奥中央に高くせりあがるセリで、ラインハルトとキルヒアイス登場。
舞台奥の上手と下手に低めのセリ。
舞台手前の上手と下手に低めのセリ。
セリの上にはいろんな提督がかわるがわる登場。
舞台奥に星空の映像。映像には戦艦や艦隊は全く映らない。宇宙空間のみ。

コロスの行進みたいな踊り。でもなにげに、バック転やらの動きもあったりする。
提督は動きが無いので、コロスの動きが戦闘員やら艦隊やらを動きで抽象的に表現している模様。アスターテ会戦の陣形も、コロスのフォーメーションでそれとなく表現されたりしているんだけど、原作既読だからこそ「・・・・・なるほどそうくるのね」といったような表現。原作未読だと、あのダンスの動きが陣形表現になっているってのは伝わらないかも。

双璧はアスターテ会戦ではコロスの中に混じって動き、がんがん踊ってた。
「ファイエル!」と叫ぶと、照明と映像に光線がとびかう。

エルラッハは戦死の際、上手手前のセリ上にいた。
退場時、セリの向こう側にバック転で移動して降りたので、びっくりした^^;
戦死はそんなふうに表現するのかーーーー。

ビッテンフェルトもアスターテ会戦に参加してた。

アスターテ会戦が終わると、貴族の舞踏会みたいな場。
衣装しょぼい。
双璧登場。
ミッタイマイヤーが妻についてのろけてる。妻の名は台詞には出ない。
貴族女性がロイエンタールにうっとりしながら彼の眼について言及。
ヒルダ登場。
政治的な事柄で話がしたいと言ってるが、門閥貴族の男性達に、小娘が政治に口出しするなとか、出会いがほしいなら男みたいな格好で出歩くなみたいにばかにされ、むっとして退場。
ヒルダは、私が原作で抱いたイメージと大分違った感じかな。小生意気な印象大炸裂。

オーベルシュタインもこの場面で登場。キルヒアイスやラインハルトと出会う場面。

皇帝登場の後、ラインハルト&キルヒアイスがアンネローゼと会って語る場面。
幼い日々の回想シーンが入る。
ラインハルトの酔っ払った父登場。
幼いラインハルトやキルヒアイスは、声をちょっと幼くして演じられる。

その後、ラインハルトの元帥府成立の場面。
ビッテンフェルトがにぎやかし役。
ラインハルトを尊敬していると言い、才色兼備で◎◎◎◎でイケメンと表現。
二つ目にあった四字熟語の美辞麗句がなんだったかは忘れた。
イケメンという美辞麗句(?)で客席の一部で笑いが起こってた。

ラインハルトの元帥府の提督達が飲んでる場面。
後からビッテンフェルトが登場し、イゼルローン陥落の報告。

その後、同盟軍が攻めてきてアムリッツァの戦い。
同盟軍のヤン・ウェンリーはアスターテ会戦からずっと、台詞の中にのみ登場する存在。「だいじゅうさんかんたい」という言葉が台詞に頻出するが、原作知らない人はそれが「第十三艦隊」のことだとわかるだろうか?????そして、ヤン・ウェンリーと第十三艦隊の関係はわかるのかしら。

1幕ラストは皇帝とアンネローゼの二人の場面。
皇帝の死。


(第2幕)

キルヒアイスとアンネローゼの場面。
アンネローゼがキルヒアイスにすがりつくシーンあり。

下手から登場したラインハルトがそれを目撃して激しく動揺。
「眼にゴミが入ったのをふいていたのかも」
とか動揺しながらその場面の変な解釈をするラインハルト。客席に笑い発生してる。
でも、青山劇場からの帰り道で横を歩いていた方がお友達にこの場面への感想を語ってたのをもれ聞いたけれど・・・・・・・この場面に相当にむっとしてたみたいだ^^; 多分、賛否両論場面なんだろうな。私はラインハルトについては好きでも嫌いでもないので、まあそんな脚色もあるのかもしれない、と非常に暢気に眺めてた^^;

ヒルダがラインハルトに会いに来て、味方になることを表明。
キルヒアイスがちょっと顔を出すが、ラインハルトはキルヒアイスにあてつけるみたいに、「二人で話そう」と言って、ヒルダの手をとって移動。
ヒルダの女優さんは滑舌が良くない。
「一つ ◎◎◎◎。二つ ◎◎◎◎」と、ラインハルトの味方を理由する理由を列挙する時、右手を大きくあげて指で数を示す動き。この大きな動きで妙に不自然な印象。台詞回しとか声質の印象だと、後日毒婦になって権力者の寝首をかこうとする行動に出てもあんまりびっくりしないかもしれない、といった感じがしてしまい、しっくりこない。

1幕は基本的に1巻。2幕は基本的に2巻でリップシュタット戦役。
原作では、内戦に集中して確実に勝利するために同盟側の動きを封じるべく同盟を二分する動きをラインハルトはするわけだけど、このあたりは舞台では言及されてない。

自身を守るために味方を大勢殺したリッテンハイム侯にとどめをさすのはアンスバッハ。指輪に仕込んだ銃を使用。
アンスバッハは、リッテンハイム侯は名誉の戦死をしたということにしましょう、と提案し、ブラウンシュヴァイク公受け入れる。
原作既読だと、この時のアンスバッハの心理やアンスバッハのキャラはわかるけれど、原作未読だとアンスバッハの行動には誤解が生じたりはしないかしら?

双璧VSオフレッサーの戦いはかなり時間的に長い立ち回りシーンとなっている。
双璧は、オフレッサー相手で罠なんて使わずに正攻法で戦っております。
まあ、二対一だけどさ。
ゼッフル粒子が・・・・といった言葉は台詞に登場するが、原作未読の人は多分、
ゼッフル粒子と白兵戦の関係についてはよくわかんないままのような気がする。
双璧に大きな怪我を負わされたオフレッサーは自刃。
ええ!?オフレッサーが自刃しちゃったら、オーベルシュタインの見せ場が減っちゃうーーーーー^^;

ヴェスターラントの民衆も、黒衣装のコロスが表現。
メルカッツ提督は、ヴェスターラント攻撃の前に亡命。
シュナイダーとの、エネルギーカプセルについてのやりとりは舞台上でも再現されてる。エネルギーカプセルを「今ぬきました」とシュナイダーが言った時、客席で笑いが起こる。そこは笑うところなのかーーー?^^;ちょっと意外。

ラインハルトの元帥府の提督達が集まっている所。
ブラウンシュヴァイク公がヴェスターラントを核攻撃する予定であるにもかかわらず、
ラインハルトが偵察艦を派遣しただけで攻撃艦隊を派遣していないことを知り、
キルヒアイスがラインハルトを説得しようとする。
ふむふむ、このやりとりは、この位置にくるのか。
ラインハルトが怒り、
「おまえは俺のなんなのだ?」
と問われたキルヒアイスが、ひざまづいて
「わたしは閣下の忠実な部下です」
と言った直後、派手な照明・光線で、核攻撃が行われたことが示される。

その後、赤い照明の中で、苦しむヴェスターラントの民衆がコロスで表現される。
彼らが呪うように、ラインハルトのまわりにあつまってきてまとわりつくという、ラインハルトの悪夢。

陽気に歌うブラウンシュヴァイク公。
演じるのは園岡新太郎さんだ。美声だわ。
彼にワインをさしだすアンスバッハ。
受け取って飲むブラウンシュヴァイク公。でもそのワインには毒が。
アンスバッハのキャラ、原作未読者には伝わるかな?こればっか心配してるな、私。

戦勝式のあたりは大体原作の通りの進行かな。ファーレンハイトはいないけど。

その後の、ラインハルトの部下達がリヒテンラーデ公を襲撃するあたりは無い。
つまり、オーベルシュタインのこの舞台での役割は、ヴェスターラント攻撃を止めないという進言のみだったことになるのか・・・・・・。

ラインハルトが立ち直るにあたって、死んだ皇帝フリードリヒ四世が亡霊のように登場してラインハルトに語りかけてくるシーンあり。

キルヒアイスの死によって精神のバランスを失ったラインハルトが第二のルドルフに
なるのではないかというヒルダの危惧。

ラストは、勝者ラインハルトが讃えられるシーン。
雛段のようなセリに、各提督が立つ。
双璧以外の提督達が一番低いセリ、それより一つ高いセリ上に双璧。
その一つ高いセリ上に、ヒルダとオーベルシュタイン。
一番高い所にラインハルト。
最後に、ラインハルトの背後に、死んだキルヒアイスがせりあがってくる。

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2010年12月16日 (木)

キャラメルボックス「サンタクロースが歌ってくれた」雑感

 キャラメルボックス「サンタクロースが歌ってくれた」を、サンシャイン劇場一階一桁列下手端席から観劇。
 休憩なし2時間。
 開場は開演の1時間前で、沢山のグッズを劇団員さんが売っている光景は、劇団公演ならではで、キャラメルボックス観劇は二度目の私、なんとなく、アウェイ感。
 舞台が始まってからもアウェイ感はやはり続く。スター役者さんの登場時に起こる拍手なんて、宝塚歌劇とか東宝大御所舞台とかとかわらないんだけど。話によくきく上川隆也さんのキャラメルでの高速つっこみは、そんなに面白いかなあ???というか、突っ込み芸が劣化したのか、どっちなのかわかんないけれど、それほどでも。

 目の前で繰り広げられる、ベタ甘のハッピーな虚構を、アウェイ感の中で眺める2時間。
 私は、シンプルでハッピーでベタベタに甘い虚構は大好きなんだけど。
 多分、成井豊さんとかキャラメルボックスが作るベタ甘ハッピーの世界は、私が求めるそれとはリズムが違うんだろうなあ、と思った・・・・・・。

 自分が中学生くらいの頃に見ていたら、思い入れたっぷりに楽しめたかなあ?
 でも中学生ではない私なので・・・・・・今の私の年代の普通の人がティーンズノベルを読んだらこういった感覚に陥ったりするのかな?????
 それとも、中学生の頃に見ても、リズムが違うといった感じを味わったかな。

 あるいは、演じる人が劇団員や帰ってきた豪華ゲストではなく、中学生くらいが演じていたら、もっとすんなりとこの物語をそういったものとして見ることが出来たのかな?
25歳を演じる西川浩幸さん、23歳を演じる上川さん。見た目的には、その年齢を演じることが出来てると思うよ(笑)でも、演技の質が、こういったティーンズノベル風に見える物の中にあるものとしては若干違和感があるんだ。ああこういったロマンチックさをこの人達はきっと一生愛している、そういうロマンチックな男たちなんだな(笑)という愛おしさは感じるけれど、それってこの物語の中に入り込んだ感想では既にないしなあ。

 思い返してみれば、私が、成井豊という人をはじめて知ったのは、氷室冴子読本の中で彼がシンデレラ迷宮を舞台用に脚色しているのを読んだ時。
 シンデレラ迷宮は、傷ついた女の子の主人公が、夢の中に現れた虚構人物のはずの人達を女ともだちとしながら、自分の傷から立ち直り立ちあがっていく物語。その立ちあがる過程の中で、男の登場人物は出会いすれ違うだけの存在で、立ちあがる過程で力をつかったのはあくまでも女の子である物語だった。
 成井豊氏はそこに、ロッドコッドという精神科医を登場させた。眠れるヒロインに彼が呼びかける。
 原作とは全く別の構造の物語になった。
 それを読んだ時、私、「この物語の救いの過程の中に、オトコ、介入してきてほしくないのに」と思った・・・・・。
 シンレデラ迷宮というものに私が求めるものとは根本的に別世界になってるんだな、と思った・・・・・・。

 梶尾真治の「きみがいた時間ぼくのいく時間」が舞台化された時が初キャラメル体験。 観劇時の感想でも書いたんだけど、終盤の展開が原作とは異なるものになっていた。

 あの脚色をした成井豊氏というのは、とてもロマンチックな人なんだなあと思った。
 でも、そのロマンチックさは、私がラブロマンスに求めるロマンチックさとはちょっと違ってた。

 私は例えば、「アンデルセンの人魚姫は、ハッピーエンドでないからこそいいんだ!」と思っているから。そういうリズムでみるから
「ああっ、ここがこうなら幸せになれたかもしれないのに」
とじれじれしても、そこを直して幸せにしてしまえとは思わない。

 購入したフォトブックについている写真は芥川、太郎、警部のどれからしいが、私が買ったフォトブックに入ってたのは上川さんの太郎さんの写真だった。私、結構この手のランダムおまけで運がいい方なのかも。

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