観劇(宝塚歌劇)

2009年12月17日 (木)

宝塚月組「ラスト・プレイ」ーーーハリーはどこへ行くの?

 正塚晴彦作品は、「ロマノフの宝石」から東京に来たものは見続けている。チケ取りしそびれて行けなかったものも2、3あるんだけど。
 一番好きな作品は「二人だけの戦場」
 二番目に好きな作品は「ブエノスアイレスの風」
 ラブコメとしてとても楽しんだのは「メランコリック・ジゴロ」

 大好きな脚本家なんだけど。
 たまに、書き流してる?と思わされることがある。
 主役に共感しない状態で、とりあえず主役を二枚目にしといてお茶をにごしている?と感じたり。 

 そして。
 本当は主役のこの人でなく、こっちを主役にすえた方が、ハリー(正塚氏)はもっとのった状態で脚本書いたんじゃないの?と感じることもある。
 以前、雪組の「追憶のバルセロナ」を見た時、主役のフランシスコと怪我を負った彼を介抱する女イザベル、フランシスコの親友アントニオと彼の結婚相手でありかつてフランシスコの婚約者でもあったセシリア。このキャスティング逆にして、アントニオを主役、セシリアをヒロインにした方が、ハリーならではの物語が見られたんじゃないの?と思ったものだったなあ。三角関係を構成する女はセシリアだし、この舞台で一番芯になっていると思ったシーンは、フランシスコとアントニオの国家に対する意見対立のシーンだった。闘おうという確固たる意思を持つフランシスコVS流血を前に逡巡するアントニオ。逡巡し変化していくアントニオが本来の物語の軸だったのではないか、ハリーは本当はそのあたりをテーマにすえたかったのではないか、と当時見ながら歯がゆく思ったりしていた。

 そんなことを思い出してしまったのは。
 今回見た「ラスト・プレイ」という舞台が、トラウマをおったピアニストであるアリステア(瀬奈じゅん)と、裏稼業にアリステアをひきこんだものの彼の過去や傷を知るや彼を立ち直らせたいとする人情の男ムーア(霧矢大夢)。
 動きがある、変化がある、軸となっているのは、ムーアだなあ、と思いながら見てしまったがため。

 正統派男役のあさこちゃん&ちょっとおっさんというのもいけてるきりやん、という組み合わせだからこういう配役だったけれど、この物語、ムーアを主役にして、彼の人情^^;を前にしてのいきあたりばったりな堂々巡りを描きながら、最終的には傷ついた少年を立ち直らせるために一筋の方向に向かって行くという物語にして、アリステアにはムーアよりもぐっと若く見える正統派二枚目二番手をすえるという方が、物語としてすっきりと見られるような気がするのになあ、と思った。

 迷いながらも自身からは何も動かない主役。
 立ち直らせようという方向に動いていく変化が、準主役であるがために描かれきらない男。
 なんでこういう構図なんだろう。
 あてがきゆえというのもあるのかもしれないけれど。

 ハリーの脚本に≪老い≫を感じる・・・・。

 今までの正塚脚本って、よく≪自分探し≫と表現される類で、主人公や準主人公がもがいている。そのかっこ悪さを宝塚的にスタイリッシュな舞台に仕上げる。

 といったイメージだったんだけど。

 もがく若者、道を見いだせない若者に対し、共感しないまま、遠くから眺めるようになってきていたりするからこそ、こういう人物構図にしておいて、本来だったら主役であったかもしれない、作者自身が一番共感できたかもしれない男に対してすら、何か距離をおいてしまっている?

 ハリーはどこへ向かっているのだろう。彼は脚本を書きながら何を描きたいのだろう。
 かつて出会わせてくれた素晴らしい作品群。
 そのきらめきをハリーに今でも求めているのだけど、きらめきを感じきれないもどかしさ。

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2009年11月15日 (日)

信じたくない

 宝塚歌劇は、かつて私にとっては「たまに」「ぶらりと」「気軽に」見るものだった。
 出演者の名前、演出家の名前等をきちんとチェックしながら、基本的にはどの公演も見るようにする、雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」を毎月チェックする、そういった感じで見るようになったのは80年代末くらいから。
 「ロマノフの宝石」というお芝居を見た時に、
「へぇぇっ、宝塚って、こんなに粋な大人っぽいお洒落なお芝居やれるとこなんだぁ」
と瞠目して、正塚晴彦という演出家の名前を覚えた。

 その時に主演していたのが、なつめさん(大浦みずき)だった。

 当時の男役トップは、花組がなつめさん、月組がウタコさん(剣幸)、雪組がカリンチョさん(杜けあき)、星組がネッシーさん(日向薫)。ダンスの花組、芝居の月組、歌と日本物の雪組、美貌の星組の時代。

 今年の私の観劇では、「スーザンを探して」と「この森で、天使はバスを降りた」でなつめさんを見る予定であった。ご病気で降板となり、前者はカリンチョさんが、後者はウタコさんが入った。宝塚で同時期に活躍されていた方達が、なつめさんが抜けたところをがっちりと支えて下さったということが嬉しかった。

 宝塚時代のなつめさんでは、お芝居よりもショーでのダンスが好きだった。
 「ザ・フラッシュ!」を見た時は、呆気にとられた。こんなものすごいダンスショーをたったの1100円で見ていいんだろうか?????と思った^^; 確かなテクニックとスターとしての華やかさを合わせ持つトップさんで、華麗な足の動き方、足を高くあげる時の綺麗なライン等にただもううっとりしていたものだった。

 宝塚退団後も、愛着と尊敬の思いを抱きながら、出演作品全部ではないけれど、結構多く見ていたような気がする。音楽座解散後の吉野圭吾くんがなつめさんと共演することが多くて「姉と弟のよう」とか言われることなんかを嬉しく思っちゃったりして。彼を活躍させてくれるなつめさんに対しては、愛着と尊敬の思いに、感謝の気持なんかも加わってきたりしていた。「Una Noche」のエロティックな二人のダンスがそりゃもう綺麗で素敵だった。

 「Che Tango '99」を見に行った時は、
「どうだった?」
とロビーで友達に尋ねられて、吉野圭吾くんのことはそっちのけで、
「なつめさんの歌が、歌が、歌がーーーーーー!!!!!」
と叫んでた私。美声とは違うんだけど、味のある歌い方の人で、シャンソンとかタンゴを歌う時にその歌唱力が存分に生かされるという印象だった。Che Tangoはピアソラ歌いまくりのタンゴのショー。それまで漠然とリベルタンゴくらいしか知らなかったピアソラの名をその時に覚えさせてもらった。

 このブログを始めてからも、何気なく愛着と尊敬の思いと共になつめさんの出た舞台の感想も書いたりしている。「ピッピ」の感想とか、ショー「RED SHOES,BLACK STOCKINGS」の感想とか。
 続く降板、夏にあった吉野圭吾くんのDSは演奏がアストロリコのステージだしもともとはなつめさんのためだった企画がまわってきたらしいこと、1月の舞台出演予定が≪声の出演≫のみになったこと・・・・・・・。
 覚悟しなくてはいけないのかということは続いてはいたのだけど。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 大浦みずきさんの訃報。Yahooニュースで肺がんと・・・・・。信じたくない。

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2009年11月 2日 (月)

宝塚星組「コインブラ物語」---オトコ轟が王子さま

 あのオトコらしい轟悠さまが、きんきら衣装で王子さま!?
 文字通り、おうじさま!なんです。
 うひゃああ、なんか見ていてこそばゆい。

 しかも、恋する王子さま、なんですーーー^^; 愛する人との出会いから終わりまで。ひたすら恋、恋、恋。ひえーーーーーーっ!!!!トドロキが恋を演じるなんて、何年ぶり?何年ぶり?何年ぶり? あ、「オクラホマ!」とかでも一応は恋してたっけ?どうもオクラホマにはあんまり恋愛物語っていう印象が無いのだ^^; その前にお芝居で普通に恋をしていたのはいつだっけ?「青い鳥を捜して」でも恋愛してたっけ?あの物語は品がなくて記憶から抹殺しているみたいでよく覚えてないんだけど。
 どうも私の記憶だと≪お芝居で恋愛を演じる轟≫を思い浮かべようとすると、「風と共に去りぬ」(日生劇場版)だとか「凱旋門」までさかのぼらないといけないのだ^^;

 今回の話はどっぷり恋物語!!!!!私の好みのタイプの恋物語とは全然違うけれど(苦笑) 恋する王子さま・トドロキ。ああなんかすごく想像の外のものを見てしまったような。私にとっての轟って、≪孤高の男≫だから。ギリシア彫刻のような美しいお顔立ちだけど、でも≪王子さま≫イメージじゃなくて^^;;;; 恋をするトドロキを観るなら、恋ゆえにるんるんしちゃったり恋の終焉で号泣の歌を歌っちゃうトドロキじゃなくて、もっとクールな佇まいの中で苦悩する骨太なオトコが見たいんですが。
 でも、綺麗だったーーーー。若干、寸は足りないが、王子さま衣装が似合う。美しい。綺麗綺麗綺麗、眼福!!!!!!!!!!

 でも、でも。喋るとやはり、王子さまな人ではないような・・・・・・・。出会いのシーンなんて、
(相手の女の子が喜んでるからいいけれど、下手すっとその言動は権力者のセクハラになりかねんぞ)
とか思っちゃった・・・・・・・・・・^^;
 轟ファンでない人にはどう見えるんだろう?正統派トドロキファンにはどう見えるんだろう?私は正統派じゃないファンなのでよくわからない^^; わからないけれど、なんか客席の熱気がいつもの轟主演公演とは違うような気がしてびっくりする・・・・・・・。

 すんごい駄作ではあったけれど、脚本家と演出家の名前を見た時点でそれはもう覚悟済み。ひねくれ轟ファンの私、妙な方面で結構楽しんできてしまったような????

 1幕ラストで立ち回りのシーン。トドロキの立ち回り、綺麗でかっこよくて素敵なのよね!そして、共に戦うのは、舞台姿に騎士度が高いすずみん(涼紫央)。すずみんも、いい動きしてた。が、しかし。この場面。なんでその相手を敵にしてやっつけなきゃいけないんだ!?殺すなよぉぉ!!!!!(怒)って思わずにはいられないめちゃくちゃ脚本。動きが良くて盛り上がるシーンであるだけに、その戦いの物語上の意味を考えると脚本にげんなりする・・・・・・・・。バカすぎる・・・・・・・・。

 2年前に、星組公演「Kean」で轟悠主演だった時は、轟悠座長公演に星組生徒さん付きっていった感じだったけれど、今回の公演は星組公演に轟悠が出演といった感じ。星組生徒さんがいい感じで活躍している。
 ちょっと前まではペーペーだった紅ゆずる君と真風涼帆くんの男役度がアップし、きらきらしていた。
 二役だった蒼乃夕妃ちゃんは、ヒロインのイネスよりもチョイ役のミランダを演じた時の方が、のびのびしていていい感じだったような。今までの舞台を思い出す限りでは、≪佇まいで魅せる≫よりも≪動いて魅せる≫みたいな役の方がはまるタイプなのかな?
 退団しちゃう水瀬千秋ちゃんが休演で最後を見届けられなかったのが心残り。可愛くてうまくて、もっと長くいてほしい娘役さんだった・・・・・・。

 日本青年館2階席での観劇。

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2009年9月20日 (日)

舞台上よりも舞台外が気になった宝塚雪組公演「ロシアン・ブルー」

○チケット購入時期待

 大野拓史の作・演出によるスクリューボール・コメディということなので、とても楽しみにしていた宝塚雪組公演のお芝居「ロシアン・ブルー 魔女への鉄槌」。

 以前、宝塚星組のドラマシティ&青年館公演だったスクリューボール・コメディ「ヘイズ・コード」がとてもとても楽しい公演だったから。楽しくて小粋でお洒落。日本物の大野作品もいいけれど(というか、若い演出家で日本物が書ける人が大野氏かおらんという現状の怖さ・・・・・・・・・・)、どっちかというとこの手のコメディの方が万人向けに楽しい物に仕上げられる演出家さんなのかな、という印象を持っていた。

○開演直前時

 開演前にプログラムを購入した。
(ル・サンクの脚本は発売時に本屋で買って、事前に流し読みしてあった^^;)

 メインキャストのページを開くと、そこには大野作品ならではのキャスト紹介ページがある。
 宝塚プログラムのキャスト紹介ページって普段は読みづらいんだ。
 メインキャストのページにあるのは、スタークラストと専科・上級生のみ。
 思わぬ下級生が抜擢されて要の役を演じていても載ってなかったりもする。
 そして、場面ごとのキャスト紹介ページは見事に学年順。どの役がどの人なのかわかりづらい。

 しかし、このプログラムのお芝居のメインキャストページは、下級生の役どころまで簡単な説明が載っていて、しかも、学年順ならぬ、キャストグループごとの配列になっていたりするので、とってもとってもわかりやすい。
 これこれこれ、こういうキャスト紹介ページがほしいの。

 大野くんはこういうページを自分の演出芝居でプログラムに作ってくれる親切な人だ。 取り扱う芝居背景について客に沢山知っておいてほしいという彼自身の思いの強さでもあるんだろうけれど。1930年代のソ連やアメリカに関して、普通の宝塚ファンが普通に知ってる有名人の名前なんて片手で数えられるかもしれないわけだし(^^ゞそのあたりも、これは実在の人物、これは架空の人物といった説明も合わせて、細かく教えてくれるのだ。
 こういうオタク的なこだわりが好きだ。

 その後、作品について演出家が語るページで大野くんが語る言葉を読む。

 うけた。

 演出助手となっての研修期間中にはじめて見た新人公演で思ったのは
「やっぱり新人は下手なんだな」
だったらしい(笑)けれども一点、主演者の、華、スター性、輝きといったキラキラ感の魅力に気づき、宝塚歌劇のスタッフとして、そうした輝きを守り続けていかなければいけないのだと理解したのだと。その時の主演者が、今回の主演者たる水夏希であると文章をまとめるわけであるが。

 大野くん、自分の文章で、書いてない重要な部分をわかっている?(苦笑)
 書いていないことの、その痛烈さ、厳しさ。
 
 輝きっていうのは、ごくわずかな人しか持っていないからこそ輝きなのだ。大部分の人は、輝きは持てない。最後まで。
 つまり、彼にとって、その新人公演における主演スター以外の大勢の人は本当に本当にただの「下手な人」だったのね^^;

 うけながらも、これは笑い事ではないのかもしれない、と少しずつ不安になりはじめる。

 彼の脚本は、出演者全員に名前つけて設定もがっちり説明しているから気づかれないことも多いけれど・・・・・・・・・
 実は若手スターに結構容赦ない。
 専科さんや上級生さん、ベテランさんに目立つ大きな役をつける・・・・ベテランさんを使いすぎて、売り出し中の若手スターさんの印象よりもベテランさんの印象の方が圧倒的になる芝居がものすごく多い。

 渋い役、難しい役を、育成中の若手にやらせるのは避けたいタイプなんだな。
 自分の書いた大事な脚本を、うまい人に演じてほしいんだな。発展途上、もしかしたら発展しないかもしれない下手な役者は視界の外に置きたいんだな。
 気持はわかる。見る方の私も、うまい人が役を演じてくれる方が嬉しいし。
 専科さん、上級生さんの、若手とは全然違う巧さを見せる舞台が大好きだ。

 しかし・・・・・・・・・・・今後の宝塚のことを考えると・・・・・・・・彼の徹底ぶりは結構危険でもある。ここ数年、素晴らしい舞台を見せてくれてた専科さんの退団が続いているし、年齢的なことを考えると、これから数年の間にベテラン専科さんは多分さらに減っていく。
 舞台を観る方の私は、下手な子が大きい役やって印象に残らないよりもずっとよくはあるんだけど。5年後10年後とか考えると・・・・・・・。5年後に私が宝塚を観られる体調を保っているかなんてわからん!とか思うと現状のベテラン偏愛、ベテラン贔屓、でもいいかしら、とちらりと思わないでもなかったりもするけれど^^; でもやっぱり、継続的に劇団としてカンパニーをやっている所は≪5年後10年後をみこして役者を育てる≫ということをきっちり考えてほしいの・・・・・・・・。

○そしてやはり・・・・・・・・?

 「ヘイズ・コード」は、星組の新トップお披露目公演だったけれど、トップコンビはどこがお披露目やねんのベテランだったし、脇をかためる人達も皆個性的でうまかったりする人ばかりだったので、大野くんのベテラン好き部分なんてかけらも気にならなかったのだけど。
 「ヘイズ・コード」大阪では実は主役の喉不調という怖いトラブルもあったのだけど、演出変更があちこちに入り、特に、主役ソロくちぱくにとどめて(:_;)でカゲソロに若手だけど歌がものすごくうまい水輝涼くんを起用する場面も入る等、ナイスな演出変更もあったりして。そんなこともあったので、演出家としての大野くんへの結構期待するものもあったりするのだけど。

 トップ娘役に抜擢された愛原実花ちゃんは、今後毎公演ヒロインをやっていくにはかなりやばい欠点がある人だと思った。

 娘役の発声というのは、普段その人が喋る音域で喋ってはダメだったりする。
 男役が相当に声を低くして感情表現できるようにしているが、それでも声が高めな男役もいる。特に若手の男役には多い。
 そうした男役とがっつり組んで芝居をする娘役は、地の声よりも少し高めの音域で台詞声をつくらないと、男役との声バランスが悪くなる。

 だから、歌の訓練をする時に、台詞の声を安定させるということをも意識しなければならないと思うんだ。このことは昔、演出家の柴田先生が発展途上の娘役との対談でもよく語ってたりしたんだけど。

 愛原実花ちゃんは、ヒロイン芝居を意識するように劇団に育てられてなかったところをいきなり抜擢されてしまったんではないだろうか。
 だから、地声とおぼしき低い声の聞こえ方なんかは決して悪くないんだが、ヒロイン芝居の声として通しで聞くと、声が妙に不安定で、演技力とか感情表現とか以前の問題なのだ。歌の破壊度なんかを聞いていると、練習にあたって歌レッスンの比重は低かったんだろうな、その結果、声を出すということへの今までの意識の低さが出てしまっているんだろうな、と思った。
 厳しくてごめんね。
 でも、いつでもころころと入れ替わりがある二番手以降の娘役と違い、トップ娘役というのは、歌を少なくされることはあっても、感情表現を伴わない台詞ばかりで乗り切るというのは不可能。
 早急にボイストレーニングの先生をがっちりつけてあげて、台詞の声を安定させてあげてほしい。歌は短くしたりカットしちゃったりというのはできるけれど、台詞を最小限にするというのは難しいし・・・・・・・・・・・・・喋れない女の人という役どころで、ビジュアルもしくは演技力によって魅せられるタイプにも見えないし^^;


 演出家の大野君はヒロインの彼女の欠点に関し、かなり巧妙な隠し方をしていた。彼女をピンで舞台上におかないのだな^^; 上司の役の専科の五峰亜季さんがかなり多くの場面でがっちりそばにくっついていて、目立つ役割をこなしているから、あまり目立たないヒロインになってしまっているんだけど、おかげで声の欠点も若干目立たない。しかし次の公演以降どうなっちゃうんだろう・・・・・・・・・。

 専科の美穂圭子さんも大活躍。やっぱり大野くんはうまい人が好きなんだなあ、としみじみ思った。

 比較的若い子でばっちり印象的な役がついている子は緒月遠麻くんだったりするし。三番手の音月桂ちゃんよりもおづきくんの方がいい役だ。というか、大野くんの音月桂ちゃんへの評価って低いんだ・・・・・・・と、ちょっとがっくりしたけど^^;おづき君の骨太の男役らしさが高く評価されているのは嬉しいことだ。

 ハマコ(未来優希)はやはり何を演じてもとんでもなくすごい存在感だなあ。

 そして、専科の汝鳥怜さん。スターリンのそっくりさんの役。実在の人物。やはり存在感の大きな役で、ソロナンバーまであるーーーーーー(@_@。
 「グランドホテル」で汝鳥さん大好きになったので、汝鳥さんにソロがあるというのは嬉しい。そういえば以前星組で「1914/愛」を観た時、
(大きい役をやるスターに歌うまさんがほとんどいないんだから、せめて汝鳥さんに歌わせてくれーーーーーーーーー」
と欲求不満に陥ったことを思い出してしまった^^; 「フレデ親父の歌のおまけ付きだ」なんていう台詞が入ったこれからソロか?と思ったら場面転換だったから、あの公演は耳的な欲求不満がひどかったのよ^^; ちなみにあの作品の演出家は谷正純氏。

 今回の雪組公演は、ゆみこちゃん(彩吹真央)とかハマコ(未来優希)とか美穂さんとか、出るなら当然何曲も歌う、という人達が沢山いる中で、汝鳥さんの歌が聴けるなんて嬉しかったな。

 そして、それだけスターさんがいるのに、若手をおいといて汝鳥さんに歌わせることを選択した演出家・大野くんに、ブラボーの気持と不安の気持の双方を感じてしまったりするわけではあるのだけど。

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2009年9月15日 (火)

「The Musical AIDA」ーーー宝塚ファン的キャスト雑感(2)

 9/11の観劇記録9/14に書いたキャスト印象記の続き。


●ファラオ(光枝明彦 ← 箙かおる)

 宝塚版のファラオは、どっしりとした歌声はいいのだけど人物像がつかみづらかった。チャルさん(箙かおる)に似合う役というのは、エロ親父、コミカル親父、冷徹な権力者だったりするんだけど、この役はそのどれにも該当しないこともあり、妙なセットで登場して一人ソロの場面など、目立つっちゃあいえば目立つ場面ではあるんだけど、次期ファラオの前任者、良き父、という印象が一番前面に出てしまい、富裕な大国の王としては、お飾り王といった印象にとどまっていたように私には見えた。

 が。
 光枝明彦さんがファラオの歌を歌い出したら。
 なんだかこの物語がえらく別の印象になった。

 非常に優しい声。慈愛深い声。
 その声が、このファラオを、慈愛深い人として位置付ける。

 となると、物語の印象もずいぶん異なってくる。
 宝塚版ファラオは、平和の構築、戦いについての展望はすべて人まかせだ。だから政治や社会の腐敗を容易に招く。
 光枝ファラオは、平和の構築や戦いについて、彼なりの思いを抱いている。

 プログラムを見て、ケネディの名をあげているのを読んだのなんかも合わせて、印象があまりにも違ってしまったことは前記した通り・・・・・・・・・・・・・。

●アモナスロ(沢木順 ← 一樹千尋)

 一樹千尋さんの王は、狂気に陥った哀れさのふりに力が入る。こうした弱さが垣間見える男が妙に似合うリアリティある男役さんであることもあり、哀れな狂気といった部分の印象が前面に出てくるからその豹変も衝撃的。

 沢木さんのエチオピア王は、一樹さんの王よりも矜持が高い。高すぎるかもしれない^^;
 狂気のふりをしていても・・・・・・・・なんとかうまく周囲をだまくらかせてはいたようだけど、本当にきわどいレベルのふりだったと思う。「鳩ちゃん」への呼びかけのにあわさなったら^^;
 狂気のふりをおさえたので、より前面に出てくるのは憎悪だ。ある意味、それこそが本物の狂気といえる演出なのかもしれないけれど。
 1幕ラスト、ラダメスが平和を希求する歌を歌う。一樹千尋アモナスロもこの歌の時、憎悪、不信感、嫌悪感で、周囲の人々の盛り上がる中(ウバルドまでこの歌に心を動かされていたように見えていた宝塚版^^;)一人さめていた。さめた状態でラダメスを睨みつけていた。
 沢木さんのラダメスへの睨み付け方はさらに強い。ぎらぎらした憎悪がそこで発散される。


●ウバルド(宮川浩 ← 汐美真帆)

 宝塚版では、エチオピア王子ウバルドの両脇は、王家の元家臣であるカマンテ、サウフェという男がいて、テロ行動はウバルドを中心とするグループによるものだったが、この梅芸版ではウバルドの単独行動として整理される。サウフェというキャラの確立した人が好きだったのと、一人でなく三人の男が一瞬のうちに自害行動に及ぶというシーンが衝撃的なこともあったので、このあたりの人数整理は少し残念。

 宝塚版のウバルドは、演じるケロちゃん(汐美真帆)の持ち味のためか、兄妹であるアイーダとの間に、兄妹ならぬ男と女としての存在感が見えた。あ、いや、間に見えたというんでなく、≪ウバルド→アイーダ≫の一方通行の強すぎる感情が見えたというのが正しいか^^; アイーダを奴隷だと軽蔑する言葉を投げつけるウバルドの本心は、妹が誇り高き王女であってほしいという思いよりも、大事な妹をよくわからん敵の男なんぞに奪われたくないという可愛い感情がどっかにあるように見えた。それが禁断の思いなのかなんなのかは知らないけれど、そうした思いを、エロティックなムードを漂わせた狂気の中に漂わす。手に入れたナイフをなめる姿なんて妙に色っぽかった。

 対する宮川浩さんのウバルド。多分こっちが、木村信司氏の意図した本来のウバルド?強調されるのは、妹に対する思いよりも、国に対する思い、矜持。
 だからなのかな。
 最後に自害する時、裏切り者がいたのだと叫ぶウバルド。
 汐美ウバルドは、裏切り者がラダメスであることが嬉しくてたまらなかったのだと思う。その名を出せば、大事な妹を奪い去ったあの男を破滅させることができる。大事な妹とあの男の関係は完全に断ち切ることが出来て、大事な妹はエチオピアに戻ってくるのだと信じて。
 だから、名を口にすることがまにあわずに力尽きたことを彼は悔みながらその後の二国の状況を霊として見続けてきていたのだろう。

 宮川ウバルドは、裏切り者がいたと叫ぶ時、アイーダのことは考えてはいなかったと思う。
 ただ、テロリストとして叫ぶのだ。和を乱すために。敵国を混乱させるために。
 だから、あの男の名を言うことはまにあわなかったけれど、そのことに悔いはないとも思える。和は乱せたのだから。アムネリス様が煽動者として危機回避を急いだから、結局目的は果たしきれはしなかったけれど。


●神官(林アキラ ← 英真なおき)

 宝塚では、目立つ役どころにつけなければいけない男役スターがいっぱいなので、ウバルドの両脇とラダメスの両脇を男役スターがかためていた。
 が、今回の梅芸版では役が整理され、ウバルドの両脇のエチオピア男性二人はいなくなった。ラダメスの両脇をかためる戦友のケペルとメレルカという二人は、役としては残っているが、存在感が宝塚版ほどではない。脚本改訂によるものだけでなく、演じる人が場で放つ光量の問題であるような気もするが。

 そして。
 演じる人の力量、光量の差の部分もあわせてめだってくるのが、林アキラさん演じる神官の存在だ。俗悪な世俗性を強調するメイクが似合っているかに合ってないか微妙なんだけど、印象的メイクであることは確かで、それもまたこの役の存在感をアップさせる。

 そして、何よりも、歌声が圧倒的だ。存在感ある歌声が、役の存在感をも大きくする。
 だから物語の印象がかわる。
 ラダメスの隣にいたケペルという男の存在感が減じたためにラダメスの孤独や寂しさがより強調されることになる。
 神官の存在感がアップしたために、エジプトという富裕な大国に巣食う腐敗もより強調されることになる。

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2009年9月14日 (月)

「The Musical AIDA」ーーー宝塚ファン的キャスト雑感(1)

 2003年の宝塚歌劇星組で「王家に捧ぐ歌」というタイトルで「アイーダ」の物語を上演すると聞いた時、真っ先に出てきたのは、笑いというか受けてしまうというか、なんかそれに違い感情だった。

 オペラはかなり苦手な私^^; でも、何故か「カルメン」と「アイーダ」はとっても好きで、テレビで放映されるとこの二つは見る。アイーダの最後の土牢の場面での静かなメロディなんて美しくて美しくて大好き。有名な行進曲はどうでもよかったり、だけど^^;
まあそんなわけなので、ベルディの曲は一切使用しないと聞いても、まあ悪くないんじゃない?くらいにしか思わなかったり。

 宝塚でやると聞いてなんで笑ったかというと。
 嘲笑じゃありませんよ、勿論。私は宝塚ファンだ。しかも、それなりに熱烈。当時の星組スターの陣容は大好きで、イチオシの組だったし。

 なんで笑ったかというと、ラダメスという、恋ゆえに愚かにも国家機密漏洩にかかわってしまう脳みそが筋肉でできているみたいな男に、湖月わたる君というトップスターがあまりにもどんぴしゃりに思えてしまったからだ。これ、けなしているんじゃないんですよ。何度も書いているんだけど、わたる君の男役については、陽性で健康的で体育会的でちょっとお馬鹿に見えるけれど妙に熱いという持ち味こそが好きなのだ。昔はわたる君の魅力がさっぱりわからず、宙組の「砂漠の黒薔薇」ではじめてわたる君の芝居いいじゃんいいじゃん可愛いじゃんと思った私は、ファンの方からは蹴飛ばされそうだけど。

 と、ながーい前置きを書いてしまったけれど、9/11の国際フォーラムでの公演の観劇記の続き。キャストから感じたことを、宝塚大劇場・東京宝塚劇場で見た宝塚版との比較もまじえて書き連ねてみる。ちなみに、宝塚版については、役替わりのあった中日劇場版は未見。


●アイーダ(安蘭けい)

 腕を存分に見せている衣装に注目(笑)ほっそーい(はぁと)

 男役二番手時代に演じたアイーダは、世評はよかったみたいなんだけど実は私はそれほど高くは評価してなかった。ビジュアル的な問題も大きかったかな。メイクに迷いが見えた気がした。男役として女役を演じるということの意味を考え過ぎたのか、妙に凛々しさが強く出てしまい、綺麗な女性としての魅力が減じてしまっているように見えた。声も同様、強さが出てしまい、女性もしくは女の子であるアイーダとしての面が見えづらく、「戦いは新たな戦いをうむだけ」と繰り返し歌うメッセージソングの歌い手ではあるけれど、物語のヒロインとしての魅力はわかりづらく。
 脚本もいまひとつ。ラダメスとアイーダが惹かれあうことになるエピソードが直接舞台上には描かれないし、二人の感情の推移も台詞上には出てこない。
 得意のはずの歌もブレスがやたらと気になった・・・・・・・・・・。

 スカイステージ等テレビで紹介映像を見ていると素敵に見えるのに、生で見ると違和感ばかりにおそわれた。綺麗に見えるかどうかに、距離的な問題も大きかったりする?ちなみに、宝塚版も私はいつも2階B席観劇だったが。

 だから、ミニオフで友達と見た時、友達が、私が安蘭ファンだからということもあるのかもしれないけれど絶賛。彼女達は、気をつかうだけで嘘絶賛を続けるってことはしないので、あら、本当に本当にほめてるんだ・・・・・・・・?と何か複雑な気分になった。その年、アイーダと「雨に唄えば」の功績で賞までもらっちゃったりして。
 私はファンなのにーーーー、私の好みと違うところでなんか風が吹いている。風自体は嬉しいんだけど、私自身はあの年に見た舞台では「ガラスの風景」のミラー警部が一番好きだぁぁぁぁぁ!とかじたばたしてたなあ(苦笑)

 話戻って、「王家に捧ぐ歌」の舞台。ラブロマンスとしては「???」となった脚本。
 ただ、そこは、演技をしすぎるほどしすぎてしまう、饒舌演技の星組スターの人達の舞台なのであった。
(ラブロマンスというのはラブシーンがあるからこそラブロマンスなのではないぞ。二人の感情の変容や揺らぎを台詞で見せろ、演出家)
とはしばしば思ったけれど、演じる主役二人は、台詞ですっとばされたそれらを、視線、抱擁の形、声の揺らぎでしっかり見せる人達であった。このため、二人のラブシーンにときめいて失神気味になっている人続出^^;

 で、今回はそのへんどうなっているかなあ、と楽しみにしていたのだけど。

 とにかく細く、女性として見せることに迷いがなくなったのか、雰囲気が柔らかくなったアイーダ。
 とはいえ、脚本上のアイーダはもともと、「戦いは新たな戦いをうむだけ♪」という思いを強く持ち戦いを忌避する感情を非常に強く持ち続けている人ではあるので。
 外見的には細くて、可憐にも見えて(←この「可憐」の部分は贔屓感情かもしれない、客観的じゃないかもしれない)、けれども、根本のところで強い。
 根本のところでは≪女の子≫にすぎないのに立場上必死に威厳を見せようと突っ張っているアムネリスとは面白い対比。

 ラダメスとの関係性は、可憐な印象ではあるものの少し年上の女性と、若々しい青年といった並びの印象。この印象が、最後の最後、死を前にした場面で生きてくる。ぼろぼろに傷ついたナイーブな青年と、彼を母性的な愛情で包み込もうとする女性。


●ラダメス(伊礼彼方 ← 湖月わたる)

 湖月わたるラダメスは、良い家族に恵まれ、良い友人に恵まれ、光の中で過ごしてきた人と見えた。
 光の中の人だからこそ、当り前のように、万人の幸福を求める。自分が幸せであるからこそ、他者も幸せであってほしい。だから、勇猛な戦士でありながらも、本来は戦闘はしたくないという矛盾もかかえるわけでもあるが、良い友人に囲まれた明るい性向の人であるからこそ、軍事作戦を語る際には笑顔がキラキラする。

 対する伊礼彼方くんのラダメス。
 全く違ったラダメスだったと思う。これはラダメスではないかも、と言ってもいいくらい違う。
 とてもナイーブな印象。
 湖月ラダメスは光の中で育ってきた人だけど、伊礼ラダメスは、幼い頃に両親をなくしたりして寂しい思いを抱えながら生きてきた人だったりする?
 寂しさ。だからこそ求める光。そして、彼にとっての光は、アイーダという人となる。
 どうやって会ったのかは舞台上では描かれないけれど。
 アイーダの戦い忌避の思いにひきずられ、もともと持っていた彼のナイーブな側面はどんどん、今あるものへの忌避感につながっていく。
 宝塚版ラダメスは、勝利に湧きすぎる王宮の腐敗を嘆く際に、戦闘で国を支える自分達についての誇りをはっきり見せ、軍の正義と意義に絶対の自信を見せるわけだが。
 伊礼ラダメスはどうもそのあたりが曖昧。軍の正義と意義について、実はあまり明確に考えてなかったりする?(笑)
 愛と信念の乙女であるアイーダにひきずられていくという側面の印象の方が前面に強く出る。
 そして、最後には、出会えたアイーダにすがりつく。出会えたアイーダこそが彼の光、彼女だけが彼の光だった。


●アムネリス(ANZA ← 檀れい)

 地声の響きは良いのに歌はアレレだった檀れい様のアムネリスは、歌はともかく美しさと威厳の同居でまさにはまり役といった感じだったが、それに比べるとANZAちゃんのアムネリス様はやっぱり可愛らしい。普通の女の子が懸命に突っ張っているといった印象。可愛らしすぎて、ラダメスが死んだとアイーダを騙して彼女の本心を引きずり出す時の仕打ちなどがいまひとつ迫力不足。
 「シェルブールの雨傘」のマドレーヌみたいな役の方が多分彼女には合っているだろうなあと思う。

 でも、歌声はさすがなANZAちゃん。地声でばーんと歌うだけでなくファルセットへの切り替えでも不安定にならないANZAちゃん。
 宝塚版では、エジプトの女官が歌いながら登場し、真打登場として優雅で豪奢なアムネリス様が登場する場面。目の保養ではあったが、耳には優しくない歌声の場面だった。
「エジプトはすごい、エジプトは強い」を略してスゴツヨと宝塚ファンに揶揄されたこの場面。
 ところが。
 梅芸版の舞台の今回のすごつよ場面のこの流れ。歌が、歌が、歌がうまいーーーーーーー(@_@。
 宝塚版では歌がうまい娘役さんはエチオピア人女性役でエジプト女官役のすごつよ場面の歌はとにかく破壊的だったが、宝塚版でエチオピア女性だった歌うまの陽色萌ちゃんが、このエジプト女官の場面に入ってたりする。
 耳への印象の相違が笑いのツボになってしまったではないか。。。。。。。^^;


 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 ここまで書いたら力尽きたので、残りはまた今度^^;

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2009年8月13日 (木)

宝塚宙組「Apasinnado!!II」と宝塚月組「Apassinnado!!」ーーーショースター不足への懸念

 8/12の観劇記の続き。ついでに、まだ書いてなかった1月見た月組のショーの感想も。

 一つの組が二つの分かれて公演する場合、下級生にも結構いい役がまわってくる。上級生シンガーの役だったソロナンバーが歌のうまい下級生にきたり、上級生優先だから今まで入れなかったダンスシーンに入り込めたり。人数が多いのに時間に限りのある大劇場公演と違って、台詞がつくチャンスでもある。

 だから私は、青年館とか赤坂ACTとかツアー公演なんかを見るのは、本来は結構好き。思いがけない出会いの楽しさにあふれてたりして。演出家がひどすぎて観劇をパスすることも多いけど(:_;)

 そんなわけなのだけど、宙組公演って何故か昔から、その楽しさを味わいきれないことが多い。(そういう意味では、水夏希主演の「里見八犬伝」は、脚本には文句が山ほどあるんだけど、沢山の若い子の名前を覚えるエネルギーを燃やせたという意味でいい公演だったなあ・・・・・)

 若手にかげソロがいっぱいついているし、ソロナンバーも多い。演出家や助手の人達は、若い人材を発掘するために稽古場見学をまめにやっているんだな、と、プログラムを見ていると伝わってくる。でも、「あ、いい歌声だなあ」と思うとその声は結局、上級生の鈴奈沙也だったりする^^; 幕間や終演後に、
「この子誰だっけ?」
とパンフをめくって確認するという作業が減っている。若手の子が折角いい場面をもらっても、その場面でがんがん存在を主張してこない感じなの。
 宙組でも・・・・・・・・・月組でも・・・・・・・・・・・・・。

 月トップのあさこちゃん(瀬奈じゅん)や新宙トップの大空祐飛くんは、華もキャラも≪ザ・男役≫として確立しているから心配はしてない。
 二番手でシンガー&ダンサーきりやん(霧矢大夢)についても心配していないし、今後似合う役がいっぱいついてくるといいなあと楽しみだ。正直なところ、女役のきりやんはもう勘弁してほしいですけれどね(:_;) ガイズ・アンド・ドールズのアデレイドの成功は、その後のきりやんにとってはマイナスでしかなかったように思う・・・・・・・・。
 博多で二番手位置にきた北翔海莉くんは癒しの歌声の人だし、渡辺綱という誠実で真っ直ぐな役は似合ってたし、場数を経てきたおかげで押し出しもよくなってきたし心配してない。

 心配なのは、現時点ではトップ娘役不在にされちゃってる月組と、ショースターとしての押し出しがメイン娘役に足りない宙組だなあ。

 月組。
 あいあい(城咲あい)はシックな華や大人っぽい美しさが出せる人だけどトップにはクセが強すぎると見なされてしまっているのかなあ??羽桜しずくちゃんはこのところ運よく役づきがよくなっているけれど、星組下級生時代からの、≪綺麗だけど・・・・・・・・・・≫の印象からかわってないので、多分この後もかわらんような気がしちゃうし。

 そして、宙組。野々すみ花は、役者だけどショースターではないと思うの・・・・・。花組時代、桜一花ちゃんとニコイチで使われる場面なんかだと、どうしても一花にばかり目がいったぞ????? 
 だからこそ、ショースターじゃないののすみを強力バックアップする形で、ものすごいシンガーとかダンサーがいれば、ショーでのこの不足感は少しは解消したような気もするのだけど。花影アリスちゃんも可愛い人だし、可憐なののすみとの対比を出すために妖艶さを出すべく頑張ってたけれど・・・・・・・・大人の女も妖艶な女も彼女本来の分ではない。この経験をなんらかの糧にするぞという意欲があれば2年後くらいに面白い娘役になるかもしれないけれど?????

 ショーで一番印象に残ったのは結局、狂言回しとして舞台をうろうろする、月だとトゥルエノス(萬あきら)&ビエント(磯野 千尋)&ジュビア(梨花 ますみ)、宙だとトゥルエノス(萬あきら)&ビエント(寿つかさ)&ジュビア(鈴奈沙也)といった、キャラの確立した三人組。

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2009年8月12日 (水)

宝塚宙組「大江山花伝」観劇記

○観劇前 

 私はさほど木原敏江好きというわけではなかったので、持っている漫画は「夢の碑」の最初の二冊と「大江山花伝」のみ。この三冊は宝塚上演をきっかけに買ったのではなく、雑誌で読んだ際にその話が好きだから買ったのであった。

 「紫子」も「大江山花伝」も舞台はテレビで見た。脚本は買った。
 宝塚版「とりかえばや異聞」の「紫子」は、鬼の風吹の設定改変が気に入らなかったのであまり好きでなかったのだけど・・・・・・・・・・・・大江山花伝には感動したなあ!
 なんといっても、ラストの藤子の叫びですよ。茨木の苦しみや価値観をすべてひっくり返すあの叫び!
 可愛くて健気で声が良くて演技力のある娘役さんで見たいなあと思ってたので。
 野々すみ花が藤子(=藤の葉)!?
 そして、クールな佇まいの大空祐飛くんが茨木!?

 見るのを我慢して東京にいろと言うの?
 できませんでした・・・・・・・・(笑)

 というわけで、とーーーっても楽しみにしていた観劇。
 8月の飛行機代は高くていやんなっちゃうんだが(:_;)
 

○続いてはいなかった恋

 原作では主人公二人の恋情は離れている間もずっと断ち切れてはいない。激しい想いが燃えさかったままなのだけど。
 
 象徴的なのは、綱&藤の葉をとらえた時の茨木の態度。
 原作の茨木は、すぐに、藤の葉の正体に気付いている。
 しかし、舞台の茨木は、まず、綱に話しかける。この時点では藤の葉には関心を示さない。茨木が藤の葉をまともに視界に入れるのは、藤の葉が綱を殺さないでと茨木に頼み込んでからようやくだ。それまで、彼は藤の葉と彼女の正体には気付いていないし、彼女に関心を示していないのだ。

 舞台の二人の恋情は、一緒にいなかった三年という日々の中でいったん途切れてしまっていたのだな。
 なんで胡蝶なんていう、原作にはいない女性キャラが茨木に寄り添うように舞台には出るんだろう、と不思議に思っていたのだけど。
 想いが途切れていた日々、再会により再燃する想い、茨木という男の思いを最終的にかえるに至ったのがなんであったのか。そんなことをつらつらと考えていると、藤子という女の対比の存在として胡蝶という鬼が配された物語構造にも納得がいった。

 藤子が茨木に向ける想いも、多分、途切れが生じている。
 大江山に向かったのは愛する茨木に会いたかったからではない。
 本当に「死にに」だったのだ。
 激動の三年間は、想いを途切れさせるには十分に長い時間だった。茨木との幸せな記憶はただの美しく記憶、そして、美しいからこそ呪わしい記憶でしかない。
 呪わしいからこそ、かつて大事だった、けれど自分を置いてどこぞに行ってしまった茨木のいる大江山は、彼女が死ぬための場所としてふさわしいと彼女は思う。

 その二人が出会う。
 そして、様変わりした状況の中で新しい感情が次第に生まれていく。

○二人の女

 胡蝶の花影アリスちゃんがどういう意図で役作りをしたかは知らないけれど、彼女は基本的には少女役者なので、妖艶な大人の女を目指そうとしても彼女の作り上げる役は大人の女とはなりきらず、なにげに健気。
 だから、少女が二人、茨木のそばに並ぶことになる。
 藤の葉という少女。
 胡蝶という少女。

 二人とも少女であるということで、二人の茨木への接し方の違い、二人の考え方の違いが、胡蝶が大人である要素が入り込む場合よりもわかりやすくなる。

 同じ鬼として、茨木の思いを理解しているつもりで見つめてきた少女・胡蝶。だから彼女は茨木の思いに常にそい、彼の思いに反するようなことは口にしない。それが茨木という男と並ぶことだと思っている。だから
「可哀そうよ、茨木」
と茨木の藤の葉への冷酷な仕打ちに対しても、上から目線^^;の同情の言葉が出てくる。茨木と並んでいるのはあくまでも自分だから。藤の葉という女が、自分と茨木の関係を脅かす存在であるだなんてかけらも思っちゃいない。そうとは気付かせない茨木のふるまいのせいでもあるのだけど。

(ちなみに、この時の舞台の茨木の心情は私には実はよくわかりません。ゆうひ君のお芝居はクールすぎて、視線や表情や声に想いの饒舌さがゆらめかないから^^; そのクールさが良いとは思うけれど、もっと想いの表現に饒舌であってくれという気もしないでもなかったりも・・・・・・・)


 藤の葉は違う。彼女は自分が茨木にふさわしくないと思っている。
 火傷で醜くなってしまったからではない。
 苦しみゆえに、憎悪や妬みをおぼえてしまった自分の心根を醜いと思っているから。
 だから、いつの日か死にたい。そして死に場所をようやく得て大江山にやってきた。
 そんな彼女は、茨木の醜い思い・行動には同調しない。「可哀そう」と口にするけれど、一方的な可哀そう、ではなく、自分の心根の醜さへの振り返りも含めた「可哀そう」なのだな。
 だから、彼女は、胡蝶のようには茨木の思いにはそわない。
 だから、彼女は、茨木に異なる価値観を叩きつける。苦しんでいたあなたは鬼ではなく苦しんでいたあなたこそ人間なのだと。

 茨木は安らぎがほしかったのではない。彼は、自分自身への断罪をも決して忘れるのではなく、その醜さを醜いと断じながらも、可哀そうと言いつつも断ずることこそが大事だと叫ぶ価値観こそがほしかった。だから、彼は最後の最後で藤子を選び、藤子をただ一人の女として抱きしめる。

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2009年7月 2日 (木)

宝塚宙組「薔薇に降る雨」「Amourそれは・・・・」雑感

・ちょっぴり予習

 観劇前に、ル・サンクでお芝居「薔薇に降る雨」の脚本を斜め読み。
 淡々とすすむお話なので、行間を埋める芝居をする人がいない場合、主演級に好みのタイプの芝居をする人がいない場合、主演級に嫌いなタイプの芝居をする人がいる場合、かなり辛い観劇になるかもしれないという予想をしてしまうような脚本だと思った。

 幸いなことに。
 私、宙組さんの主演級に苦手な人はない。生徒さんのお顔と名前が一番一致しない組でもあるけど^^;
 持ち味が役と大幅に異なるのでは?という違和感もさほどない。
 そして、私はウメちゃん(陽月華)のお芝居というのは、昔からとても好きなのであった。声にクセがあって歌がアレだからあまり実力派扱いされないウメちゃんだけど、お芝居での役の幅は結構広い人だったと思う。

・振付

 観劇前にプログラムを斜め読みして、平澤智さんの振付シーンがたっぷり入っていることに大喜び(*^^*)彼が振付するかっこいい群舞が大好きだ。
 
 しかし、ジャスティンとイヴェットの一夜のシーンの振付は直接的すぎ。
 昔、アキコ・カンダ振付でもっと直接的な類のものを見たことがあるけれど、あれはエロティックな美しさを醸し出す印象だったのに・・・・・・平澤振付にエロスの美を求めてはいけないのか?あくまでも彼の振付は、スタイリッシュなかっこよさにこだわるのがいいのかしら・・・・・・。
 
・ジャスティンのタニちゃん(大和悠河)

 たっぷりと声量のある声で、しばしがなるタニちゃん^^;
 でも、相変わらず、というわけではないのよ。
 音はずしてないっ!音は合ってる!?。
 突然がなるから、つい笑っちゃうんだけど、音は合っているのーー☆

 ああああ、変な表現の仕方ですみませんっ。
 そんなタニちゃんが可愛くて好きでした。好きだったんですよーーー。なんてヘタなの!?としばしば思いながらも、そのヘタさっぷりが愛おしくて愛らしくて^^; 
 下手なんだけど、タニちゃん比でどんどん良くなっていて、影で一生懸命なんだろうなあというのもよくわかって。舞台で出てくる持ち味は陽性で元気でちょっぴり不思議ちゃん。でも、影ではきっとコンプレックスに苦しみながら頑張って頑張って頑張りまくったんだろうなあ、と、タニちゃん比でかわっていくいろんな部分を見ながら、そうやって感じさせる落差の部分がいとおしく愛らしく。可愛い息子や可愛い孫を見るような気持でタニちゃんの舞台をいつも楽しんでいた。

 嫌みが全然ない、素直でいい人という味が役にもいい形で生きていて、脚本だけ見ると(ジャスティンってなに?二股男?????????????????現在の恋人ヘレンに対する彼の態度はなんやねん?)
なんだけど、タニちゃん見てると、
(なるほど・・・・・・・あまりにも単純頭の一生懸命な子で、単純すぎるから、ヘレンへの想いの部分は二の次になっちゃうんだな。一緒にいて摩擦が生じない関係を保てた知性的な女だから一緒にいたけれど、情熱の対象は過去の女とクルマで、今の彼女が彼の中で占める優先順位は自然と下にいっちゃったんだな。無意識に順位下げちゃっているな)
というのをなんか素直に納得できてしまって、二股ぶりに反感もわかず。
 この不思議ちゃんの持ち味が大好きだった・・・・・・・。

・ショー

 演出の岡田氏は絶対、生徒さんのレッスンのチェック等はしてないんだろうなあ。
「○○は●番手。だからこの役」
「□□はシンガーと評されている。だからこの役」
「△△はダンサーと評されている。だからこの役」
ってな感じでキャスティングしているでしょう・・・・・・。

 でも、トップコンビのデュエットダンス場面で風莉じんにかげソロさせてたのはナイスだ。いい歌声だったな(#^^#)

 前回公演もそうだったけれど、スター扱いされる主要数人の生徒さんの中にシンガーが少ない分、北翔海莉くんの歌声に感じる癒しも大きかった。(前回公演は北翔くんだけでなく、和音美桜ちゃんの歌声も癒しだったなあ・・・・・・)

・ウメちゃんの思い出

 星組から宙組に組替えになった時には、≪可愛い我が娘をお嫁に出します、アラはいろいろ気になるかもしれませんが、いい子なんです、大事にして下さい≫みたいな心境だった(笑)

 「イーハトーヴ夢」で狂言回しの一人として出てきたアメユキが可愛くて、その頃から注目。
 正統派とは少し違う、風変わりで個性的な娘役さんだと思った。ゆめゆめしさ、可憐といった風情はあまりなく、強靭さ、現代性、男役もいけるんじゃないかと思わせるような凛々しさ。がさつに見えるような時もあった。「雨に唄えば」を見た時、
「ウメちゃんのスカートの裾さばきって・・・・・」
と言ったらMさんに
「ああ、ウメちゃんのダンスはしょっちゅうパンツが見えることで有名よ」
と言われた。豪快で目をひく踊りなんだけど、娘役ダンスとしてはもにょもにょ・・・・だったりしたのよね。

 そんなふうに、がさつに見えたりもするのに、実はものすごくナイーブな部分も見せる。異様に神経質にもうつりかねない部分を、弱さという形ではなく、ナイーブであることを前面に出したり、強靭な壁を築いて弱さを隠してみせたり。
 そんなふうな彼女の持ち味を生かした役は面白い出来上がりになっていて、好きだったなーーー。
 「ベルサイユのばら」でロザリーというキャスティングを最初に聞いた時は、あまりにも彼女の持ち味に合わないと思って大笑いしたりもしたのだけど、実際に見てみたら、リアリティのある強さ、弱さ、壁、可愛らしさといった部分が、妙にロザリーという役にマッチしていたりして、はまり役とまでは思わなかったけれど大笑いしたことは大いに反省したものだったわ。

 独特な声や身長の高さのためか、下級生時代は溌剌とした元気な女の子や少年の役があてられることが多かったけれど、意外とナイーブで神経質な部分がクローズアップされるようになり、その部分がオギーのショーなんかでは魅力的に引き出され・・・・・・。「ドルチェ・ヴィータ」は檀れいちゃんが表向きのヒロイン、ウメちゃんが実質ヒロインという内容のショーで、二人の娘役の一番素敵な部分が存分に発揮されてたショーだったなあ(#^.^#) 檀ちゃんはひたすらに美しい魔性の女で、ウメちゃんは時空と運命に翻弄される神経質な少女で。世界を翻弄する美女と、世界に翻弄される少女。ああ大好きな美しすぎるショーだった・・・・・・・。

 「龍星」の花蓮、二刀流で闘う女。この役も大好きで大好きでこのへんにも長々と感想書いたりしました。

 歌は最後の最後まであらららら・・・・・・だったけれど・・・・・・・・
 サヨナラショーでなく、通常公演でウメちゃんを見送るものとしては、
≪最後に見る彼女単独場面は、大階段を歌いながら降りてくる姿かよっ!?≫
っていうのはなんだか。この歌、あんまりウメちゃんの声域にあってないし(:_;) 

 最後のお芝居は、社交界の薔薇と評される美女イヴェット。
 でも、外見の華やかさとは異なる、臆病で優しすぎて神経質にもうつる部分を持つ女。(華やかさ、という部分には、ちょっと今回、足りてなかったかもしれないけれど)
 正塚芝居によく出てくる、ちょっとした短い言葉が紡がれていくお芝居。そのちょっとした部分に、内面の臆病な部分とか、懸命に気を張っている部分とかが透けて、可愛い女の子だった・・・・・・・・。

 ショーでも、髪飾りもこっていて綺麗で、着こなすのが難しそうな色合いの衣装を着こなしていて、スタイル良くて素敵だった。

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2009年6月29日 (月)

映像版宝塚「ソロモンの指輪」を見ながら思考があちこちにとびまわる

 荻田浩一氏の宝塚最後のショーがどんなふうに映像化されているのか。
 その興味で六本木の映画館に足を運んだ。
 タカラヅカレビューシネマ「ソロモンの指輪」
 新感線のゲキ×シネ以外で、舞台録画をこういった形で見るのははじめてかな。
 35分のショーに1000円。安いのか高いのか微妙な金額だけど、荻田ワールドの美の洪水が映像化されているのであれば、宝塚苦手な友達をも誘いやすくなったりもするかな、なんてちょっと期待する。

 ちなみに、東京宝塚劇場で観劇した時の感想はココ。 
 作品の美しさと恐ろしさに幻惑されつつも、今までのオギーの仕事とは異なり、宝塚スターがただのパーツ化されていたことに恐ろしく不満を持っていた観劇当時。こういう保守的ファンの存在がオギーを宝塚にいづらくさせちゃったのかな?????でも、宝塚在団時代最後の外の仕事であった「傾く首」男性出演者座談会で出演者は皆、
「荻田先生はあてがきしてくれる」「思わぬ側面をひきだしてくれる」
と口を揃えて言ってたのよ。宝塚以外でもオギーは役者からそういう類の信頼を得ていたのよ。
 そういう信頼すら取っ払ってまでも、やってみたかったような仕事が彼にはあったのだろうか。退団後にそういう仕事を彼がやっているのかは、彼の仕事の全部は見てないのでわからないけれど、評判を聞く限りではまだその域ではないような?

 美と幻惑の洪水を作り出すオギーという演出家には、多分一生興味はつきないと思うので、いろんな作品を見ながらこれからも考え続けてみたいと思う。
 オギーが作り出していた世界を遠い2階席から見るのは幸せだった。
 オペラグラスなんか使っている余裕はなかった。
 世界全体があまりにも美しくて。美しい地獄。美しい闇。美しい狂気。狂乱。


 さて、ところで、レビューシネマ版「ソロモンの指輪」なんだけど。

 ??????????

 宝塚以外の映像作家の方が撮影するのだから、スター中心映像になるのではなく、舞台全体の美しい使い方をクローズアップしてくれるんではないかと期待していたのだけどな。オギーの作劇は、スターを見せるということにとどまらない。色彩、音楽、舞台装置、すべてにこだわりがある。2階席からの眺めにも彼ははっきりこだわりを持っている。無暗に客席通路降りでファンと生徒さんをハイタッチさせて盛り上がるという方向でお茶をにごすことはしないもの。舞台と客席の間に、明らかに世界の区切りがある。その区切りの向こうに作り出す舞台そのものに、絶対的な自信があるからこその姿勢なんだろうな。 そういえば、以前、ブディストホールの「王妃マルゴ」でオギーを見かけた時、上演中の彼が座っていたのは、客席後方上手ブロックだった。後方から舞台がどう見えるかということに明確にこだわりがあることが、そんなことからもうかがえた。前方だと、顔の表情や美醜だけでも伝わりうる世界があるけれど、舞台後方からの観劇だと、声の力、声が作り出す役の押し出し方、立ち姿や体全体の動かし方、そういったものを明確に見せる人でなければ魅力は押し出されてこない。お顔がちょっと地味か否かなんて本当に些細なことで、声と立ち姿と動きが作り出すものこそが重要。

『まわる盆に乗った巨大な指輪の中で静かに踊る極楽鳥たちが黒い衣装をゆらめかせる。』

舞台で見ていてあまりの美しさに一番ぞくぞくしたのはこの場面だったので、ここの撮り方の中途半端さに欲求不満。

 映像作家の橋本直樹氏は、演じる役者さんのアップを多用する。
 その時に歌っている人、力強くうたっている人が画面で全開になったりするし、番手順を映像の量で調整するといったような宝塚歌劇団発売ならではの撮り方はしないから、舞台以上にキム(音月桂)の重要度が映像の中では高かったりする。

 と文句を言いつつも、「パッサージュ」「バビロン」「ドルチェ・ヴィータ」なんかも、レビューシネマっていう形で見てみたかったな。バビロンと博多版パッサージュ以外は併演のお芝居が苦手でショーのみ行くというのを繰り返していた私。映画館で1000円で見られるんならいくらでも見たいわ。
 特に「パッサージュ」。他のどの場面をぬかしてもいいから、天希かおり&五峰亜季のダンスから始まる「硝子の空の記憶」の場面の映像を映画館で流してくれたりしないかな。
 はじめてあの場面を見た時。あまりにも美しくて、あまりにも恐ろしくて、あまりにも哀しくて、あまりにも清浄で。
 美しく硬質な硝子。脆く欠けてしまう硝子。
 白、青、水色、オレンジといった色調で表現される世界なのに、そこにあるのは、猥雑な地獄の手前にある場所。
 あんなに美しくて恐ろしい世界は見たことがなかった。

 オギーがプログラムに書いていた場面説明文が、これまた美しくてね。

「一組の男女の姿が浮かぶ。二人の緊迫した関係・・・・女はまるで死に向かうように悲しく踊る。やがて同じ様な幾つものカップルが浮かび上がる。終末の時代の群像。一人の男が現れ、その群像の中にいる、一人の女と出会う。別れては出会い、また交わる人々の姿、互いを苦しめるように睦みあう。そして、男は女を見失い、一人佇む。最果ての海が輝き、男は一片の硝子を拾う。その硝子を透かしてみると・・・一人の天使と少女の影が見える。少女と天使、そして男を取り囲む、海と光と、白い群像。それは遠い過去の想い出か、それとも遥か未来の幻なのか、男は海と硝子の煌めきにたゆとう。やがて硝子は光を失い・・・天使は一人虚ろに踊る。再び人々の群像が見える。静かな悲しみに満ちた世界。再び出会う男と女、二人はひととき重なり、また離れて、しかしまた足を止める」

 オギーは絶対、作品集を文字の形で残すべき人だと思うよ・・・・・・・・。

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