観劇(宝塚歌劇)

2011年11月 9日 (水)

宝塚花組「カナリア」雑感

 日本青年館の2階後方センターブロックにて、宝塚花組公演「カナリア」を観劇。

★初演の思い出

 初演は、ル・テアトル銀座で観た。
 観劇前に思い描いていたものと、かなり違う物語だった。
 観劇前は、シリアス物の舞台を観る予定でいたらしい。
 炭鉱でカナリアを連れ歩く男。毒ガスが少しでも流れていたら、カナリアは死んでしまう。カナリアは、毒ガス検知の役割を果たす鳥。そうした状況にいる自分を嘲笑しながら任務にいそしみ、連れ歩くカナリアに対して奇妙な連帯感を抱く男。そんな男が主人公になる物語を正塚晴彦氏が書いたら、面白いものになりそうだなあ、と期待したりしていた。主役の演技力はよくわからないけれど・・・・・(-_-;)
 真偽は知らないけれど、シリアス芝居を描こうとしていた正塚氏になんらかの圧力がかかっただとかなんだとかで、実施された公演は喜劇に近い色合いのものだった。カナリアというタイトルではあったけれど、カナリアの登場はとってつけたようなものにすぎなかった。鳥はカナリアである必要は全くなかったし、カナリアの糞がどうとかこうとかといった設定でカナリアが物語上に登場しているだけだった。
 でも、観ていてかなり満足した公演でもあったんだ。
 コメディとして出来がよかったかと問われると、若干疑問であったりしないわけでもないけれど。
 印象に残る出演者が何人もいた。

 筆頭は、ヒロインのアジャーニのみどりちゃん(大鳥れい)。宝塚娘役ヒロインの限界を突き破るようなほどに力強くはっちゃけた女の子で、飛び蹴りの決まり方の素敵さといったら(笑)ヒロインというよりは主役だったなあ。タモちゃん(愛華みれ)相手役時代、みどりちゃんはトップよりも実力派として脇を固める方が似合っていると思っていたんだけど、そんなことはない、合う役が来てなかっただけだ、ということが、この公演でよくわかった。素晴らしかったな、何もかも。
 オサちゃん(春野寿美礼)のラブロー神父の妙なテンションは面白すぎた。二枚目でかっこつけてるオサちゃんよりも、変な風に力が抜けた感じの役どころを演じるオサちゃんの方が好きだった私。並んで芝居する、遠野あすかちゃんが演じるシスターのヴィノッシュも変なテンションが面白かった。
 そして、役不足といわん限りに何人も登場する、娘役の小悪魔ちゃん達が可愛かったなあ。舞風りら、桜一花、沢樹くるみ、他。豪華だったわーーー♪
 楽しい公演だった。すっかり、みどりちゃんのアジャーニを主役として観ていたので、ラスト場面がみどりちゃんで終わるのではなくチャーリー(匠ひびき)のヴィムで終わることにとまどったりした、といったような、妙なバランスの悪さも感じたりしたけれど。

★今回の公演。公演前の期待。

 そして今回の公演。
 自分自身の宝塚熱中度がだいぶ下がってきてしまっているので、出演者の名前を眺めても、初演と比べるとさっぱりな部分が多い。
 初演で正塚晴彦お気に入りの専科のおっさん役者・未沙のえるさんが演じたティアロッサミを演じるのが上級生・実力派娘役の桜一花ちゃん。なんじゃそら?わけわかんないーーー。というわけで、私的に一番注目したキャストがそれ。もともと、小柄で可愛い実力派娘役の一花ちゃん、大好きだし。
 アジャーニ役の子は、若手娘役として注目されていることは知ってはいるけれど、私的にはほぼ初見かな。どんなお芝居する子なんだろう?
 主役の壮一帆くんはもちろんわかるよーーー。周囲と空気感が異なる、のほほんとしたムードの演技をする時が一番好き。そういう意味では、今回のヴィムという役は持ち味にぴったり合っているように思える。ラブロー神父のみわっち(愛音羽麗)もわかる。いろんな役の幅のある、若干便利に使われちゃってるかなあといった部分が少し気になったりもする、実力派男役さんで、二枚目もコメディも女役もばっちりの人だ。
 小悪魔に華耀きらりのお名前が。きらりちゃんの無駄遣いという気がしないでもないが・・・・・。

★全体的印象

 初演は、アジャーニが主役の物語という印象だったけれど、この再演版はヴィムが主役の物語として観ていた。

 初演アジャーニのみどりちゃんは、原色イメージの人だった。常に、くっきりと鮮やかな存在感だった。
 再演アジャーニの実咲凜音ちゃんは、役者としてはわりと、無色透明系なのかな。上手い人ではある。どんな色にも染まります、といった感じの上手さと可愛さ。そういったイメージだったので、原色バリバリの色合いで個性的に攻撃的に舞台に立っていたみどりちゃんのアジャーニほどには印象が強烈ではなかった。そういった存在感だったので、自然と、ヴィムの物語が前面に出てきた。

★ほかの役者さん

 主役以外で印象が強かったのは。
 ティアロッサミの桜一花ちゃん。パシャの悠真倫。ラブロー神父のみわっち。

 ゆまりんのパシャは、悪魔学校の先生。初演では、シビさん( 矢城鴻)が演じた役。ド迫力のすさまじき怪演。
 ゆまりんは濃かった。実に濃かった。濃すぎるといってもいいくらい、濃かった(笑)なんなんだ、あれは。
 私の観劇日が、ゆまりんの出るトークショーの日であったこともあり、おそろしく濃いゆまりんの印象から抜けられなくなった(笑)うまい人だからもともと好きではあったんだが、こういう濃さの人だったとは(大笑)

 ラブロー神父のみわっちも、やはり、うまい人だよねえ。

 そして、楽しみにしていた一花ちゃん。
 初演ではおっさん役者・未沙のえるが演じる、カナリアを飼うホームレス。物語のキーになっている役どころ。それを、実力派娘役の一花ちゃんが。
 ホームレスのボロ姿が妙に似合ってる。こんな衣装を着ても可愛い一花ちゃん。緩急自在でうまい役者さん。何やっても、いつまでも可愛くてうまい人だなあ。
 ラスト場面は、ホームレス姿ではなく、違い衣装で登場。ここは笑うところか?ホームレス姿の方が可愛いってどういうこと?

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2011年10月18日 (火)

観劇記録にならなかった日記—-「小さな花がひらいた」

 宝塚花組ツアー公演を府中の森芸術劇場で観劇予定だったが、前夜に体調を崩してしまってかなわなかったため、かわりに、1991年に観た公演「小さな花がひらいた」の思い出話でも書き連ねてみる。

 当時の私は、宝塚ファンになってさほど年数がたっていなかった。二番手男役さんで、男っぽい演技をする力があって、スタイルも普通に男役っぽいかっこよさで、歌声にも男役らしさがばっちりの、男っぽくてそれでいてノーブルでもあり、笑顔が爽やかで優しさと包容力ばっちり・・・・そんな男役さんだったルコさん(朝香じゅん)が、トップ男役になることなく退団してしまうだなんて、考えたこともなかった。
 だから、宝塚歌劇団の機関紙で退団情報を見た時は、ただただ唖然とした。

 東京宝塚劇場での4月の退団公演「春の風を君に」で飛虎を演じたルコさんは、かっこよかった。でも、「春の風を君に」はトンデモな物語だった。キャラはかっこよくても、物語は楽しめない。そんな舞台でやめてほしくなかった。
 だからこそ、翌月に日本青年館で上演されることになっていた「小さな花がひらいた」については、祈るような気持ちで楽しみにしていた。何が何でもよい公演であってもらわなければ困る。
 幸い、山本周五郎の原作による作品であり、1970年代に花組で、1980年代に星組でと上演されたため、柴田侑宏脚本が、劇団発行の脚本選にも掲載されている物であった。原作も脚本も事前に読むことができた。多分、好きになれる公演だろうと思えた。

 もともとは、大劇場用の一本物のお芝居。
 この時の青年館公演では、サヨナラショーががっちりついて、それによって2幕物として時間の穴埋めをしていたような、小さな規模の作品。

 それにしては、出演者は、えらくえらく豪華であった。

 質屋の女将に北小路みほ。町方同心に未沙のえる。
 専科からも、大工の棟梁で岸香織、大工の番頭で麻月鞠緒。鈴鹿照も出演。
 小さな作品なので、役不足といってしまってもよいような状態で、演技力のある人がひしめく。

 そして、沢山出てくる子役に、これまた、後のスターがぞろぞろといっぱいなのだった。
 特に目立つところでは、伝次のタータン(香寿たつき)。
 一番ちっちゃな女の子・あつを演じる森奈みはるちゃん。

 姿月あさと、汐風幸といった人達も子役で出てたのよねえ。

 ノリの良い主題歌のついた、人情物の作品。
 とにかく子役が沢山で、ちっちゃいけれど元気なお芝居がさあこれから始まりますよーー♪といった感じ。

 茂次の朝香じゅんは、青天も似合っちゃう粋なかっこよさ。「女房になるのかならねえのか、どっちだ」と詰め寄る場面が好きだなあ♪原作とは相当にシチュエーションが異なる場で発せられた言葉だったけれど、これはこれでかっこよくて素敵なのだ♪

 ヒロインのおりつの梢真奈美は、おりつとしては若干微妙だったかも?「ベルサイユのばら」のジャンヌのゆるやかな底意地の悪いせりふ回しが素晴らしすぎたので、その印象から観ている私が抜け出し切れずにいたというのも、不公平な観方だったかもしれないけれど。ジャンヌは怖くて本当に素晴らしかったのだ。でも、庶民的な顔立ちは、おゆうとのバランスという点においてはよかったのかな。

 華陽子のおゆうは、綺麗だった。上品なお嬢っぽさが似合う人だった。それゆえに、その後、お嬢っぽい役ばかり続いたのは、彼女にとってはやや災難であったかもだけど。退団公演はお嬢ではない弾けた役でよかったね(笑)

 安寿ミラ演じるくろは、原作のくろよりも可愛くて軽快でいい役どころだった。

 そして、こども達の中で一番ちっちゃな子として登場していた、森奈みはるちゃん演じる、あつ。めっちゃ可愛い女の子だったなあ。可愛くて可愛くて、いきなり好感度大アップになった、可愛い娘役さんだった。
 可愛いあつと、子役達のちょっとお姉さん的な位置で出てきている、夏目佳奈のお梅が、いいバランスだったなあというのも、懐かしい。

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2011年8月17日 (水)

宝塚宙組「ヴァレンチノ」---二人の女

 日本青年館で「ヴァレンチノ」再々演版を観劇。

 「ヴァレンチノ」。演出家・小池修一郎のデビュー作であり、おそらくは最大傑作。 

 イタリアから遠い異国のアメリカ合衆国に渡ってきた青年ルディー。彼の夢は、アランチャ(オレンジ)。アランチャの農園を作って、アランチャで稼いで、そして、イタリアに置いてきた母を自分のもとに呼び寄せたい。資金をつくるために、まずはニューヨークの酒場で働く彼は、女性の心を鷲掴みにするような人気タンゴ・ダンサーに。外見ゆえに出来ること、全く裏腹の若い綺麗な夢。その不思議なアンバランスを演じる大空祐飛くんがすごく良い。ルディー、可愛い♪
 が。街の影のボスであるデ・ソウルの愛人のつかのまの相手となったことがデ・ソウルにばれる。(デ・ソウルの悠未ひろ君は、この種の役だと誰にも負けない存在感とかっこよさ。2幕が特に良かった)。ニューヨークにはいられなくなったルディーは、カリフォルニアへ。アランチャの夢に一歩近づこうとするが、特技といったらタンゴを踊るといった以外にこれといって無い彼が、仕事を探す際に紹介されたのは、ハリウッド映画のエキストラ。毎日仕事がまわってくるわけではない。二日間何も食べずに過ごす羽目になったルディーは、アランチャの香りに誘われて、ある屋敷の庭に入り込んでしまう。そこに住んでいたのは、シナリオライターのジューン・マシスだった。護身用の造り物の銃を突きつけながらルディーの話を聞いたジューンは、まだ決まってなかった映画「黙示録の四騎士」の役に彼こそがぴったりなのではないかと予感する。ジューンはわずかな時間のやりとりの中で、ルディーの中には、女を夢中にさせるラテンの男の香りがあることに気づく。ライターとしての彼女は、原石の彼を磨きあげてその部分で彼を売り出せる可能性に気づく。そして、ライターならぬ女としての彼女は、ラテン・ラヴァーの彼の内にある少年のような部分に惹きつけられずにはいられなかった。
 ジューンはメトロ映画の宣伝係ジョージ・ウルマンにルディーを紹介。役者として身なりを整えられたルディーは、ラテン・ラヴァー≪ルドルフ・ヴァレンチノ≫として新たな道を歩み出す。「黙示録の四騎士」のジュリオは大成功、続いてジューンがシナリオを書いた「椿姫」。その撮影現場で、ルディーは、新進デザイナーのナターシャ・ラムモヴァと出会う。ナターシャはルディーの中にインスピレーションの源を見出だし、ナターシャの積極的な接近でルディーとナターシャの距離は縮まっていく。
 ルディーの映画デビュー以来、ずっと彼を見つめ見守ってきたジューンは、ルディーとナターシャが男と女として近づいていくのをただ見つめていることしか出来ない。姉のように母のようにルディーと接してきていたジューンは、その位置づけを崩すことが出来ない。「椿姫」公開後、ルディーはナターシャの紹介でメトロ映画からパラマウント映画に移籍。移籍後の最初の作品「シーク」のシナリオはジューンが執筆する。しかし、ナターシャはルディーの作品のすべてをプロデュースすることを望んでおり、その次の作品「血と砂」を最後に、ルディーの出演作品にジューンがシナリオを書かないように仕向ける。
 ルディーとナターシャの結婚が発表され、ジューンはハリウッドから姿を消す。
 美とセンスの結婚と世間に騒がれるルディーとナターシャの関係。しかし、二人の関係がもたらした幸福感はほんのわずかなものでしかなかった。アランチャの農園、故国に置いてきた母を呼び寄せることを夢見るルディーの求めるものは、ささやかな家庭的な幸せだった。が、それはナターシャの求めるものではなかったし、そうした夢を持つルディーはナターシャが求める男ではなかった。ナターシャはルディーにインスピレーションを求めた。けれど、ナターシャが知っているルドルフ・ヴァレンチノの魅力の土台は、ルディーの魅力を知りつくしているジューンがつくりだしてきたものであり、ジューンを排除して新たなルドルフ・ヴァレンチノをプロディースしようとしても、彼をかすめとっただけのナターシャにはジューン以上に彼の魅力をプロデュースすることは出来ない。二人はそれぞれ孤独の中でもがき、そして結局二人の関係は破綻する。
 ルディーは、自分を最もわかってくれた女性ジューン、自分と最も親しい位置にいた友人ジョージのもとに再び戻って再出発したいと願う。ジョージのもとを訪れたルディーは、ニューヨークの街で≪ラテン・ラヴァー≫を思い起こさせる男性を描き続けるロマンス小説作家が活躍していること、その作家はおそらくはジューンであろうと思われることをルディーに告げる。
 
 再演版のナターシャだったゆきちゃん(高嶺ふぶき)は、女性としての押し出し、威圧感、自信をもっと前面に出していたような感があったけれど、今回みた七海ひろきのナターシャはもっと線が細い。以前見た「ヴァレンチノ」は、一人の男と二人の女の物語だったけれど、今回見た「ヴァレンチノ」では、ルディーとジューンの存在が突出していて、ナターシャの存在感は後退している。ルディーの魅力を自分こそが完璧に見せるのだと望みつつも、所詮はジューンの造り出した物の中であがくことしか出来なかった。その情けなさと哀しさ。

 一方のジューン。自分自身を見せることに関しては徹底して不器用で、ナターシャが女としてルディーに接近してきた時に、ルディーに対して姉のような存在であり母のような存在である場所からもう一歩踏み出してみせることが出来ない。シナリオライターとしてはルディーを知り尽くしていて、知り尽くしているということそれ自体がナターシャに敗北感を抱かせるほどの存在であるにもかかわらず。戦いの中でナターシャが自滅してしまったので、ジューンのもとにルディーは戻ってきたけれど、戻ってこないという道もありえたほどに脆い関係の男女であった二人でもあった。早すぎるルディーの死といった現実がなくても、男と女という形での二人の結びつき方は脆いままだったかもしれないと思わせる二人。男と女というよりは、夢や幻想といった形で結びついている二人。アランチャやラテン・ラヴァーは、その象徴の形であるようにも見える。

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2011年8月 4日 (木)

宝塚宙組「美しき生涯」「ルナロッサ」ーーー美しきビジュアル

 宝塚歌劇宙組公演「美しき生涯-石田三成 永遠(とわ)の愛と義-」「ルナロッサ-夜に惑う旅人-」を、2階B席下手側から観劇。

 トップの大空祐飛くん&二番手の凰稀かなめ君。この二人が並ぶことによる、ビジュアルの力に絶句した。
 組替えで宙組からいなくなった前・二番手の蘭寿とむ君だって、ビジュアルに難のある人では全然なかった。蘭とむ君とかなめ君のどっちが綺麗な人であるかについては、いろんな感想があるとも思う。
 が、しかし。なんというか。

 かなめ君の美しさって、ゆうひ君の美しさと系統が同じ方向だったんだな、と認識して驚愕した。系統の同じ美しさの二人が立ち並ぶことによって出来る絵図はこんなふうになるんだ!!!

 ゆうひ君と蘭とむ君は全く逆方向の持ち味の人だった。月とお日様。陰のある人と体育会系。
 でも、ゆうひ君とかなめ君は・・・・・・・「大王四神記」のホゲが二人。陰のある人が二人。陽光ではなく月光が持ち味である人が二人。

 蘭とむ君のビジュアルってのは、ビジュアル一辺倒ではなく、エネルギッシュなダンスとか、元気な体育会系的雰囲気とか、そういったものを合わせて楽しむものだったけれど。
 ゆうひ君とかなめ君のビジュアルってのは、まずビジュアルありき、みたいな感じ。素顔はめちゃくちゃ美人というわけでもないような気もするけれど、メイクして衣装つけて宝塚の舞台に立つと、宝塚的な美しさを発散させる。かなめ君はついこの前まで、最大の武器であるはずの宝塚的ビジュアル力という点においても、持っているはずのものをきちんと出しきれてない物足りなさがあった人だったけれど、ここ一、二年で急速に何か(多分、最大の武器が最大効果を発揮するような活用法)を身に付けてきたという感じ。ビジュアルが徹底した力になってきた。

 銀橋に石田三成のゆうひ君と疾風のかなめ君の二人が並ぶ場面があった。
 呆気にとられるほど美しかったーーーーーーー。

 「美しき生涯」というお芝居において何よりも印象的だったのはその部分かな。

 次に印象的だったのは、ヒロインが主軸のお芝居だったということか(^^ゞ トップは石田三成のゆうひ君だけど、脚本における実質主役は、茶々の野々すみ花だった。世間や物事がわかっていなかった少女時代とその時の運命の出会いに始まり、抗争の中で諦めざるをえなかったことと諦めずにすがりつきもぎとったものが描かれ、最後の最後には農民の女に扮装して囚われの三成に会いにまで行ってしまう、激しい激しい火の球のような勢いのある主人公。三成と疾風は相手役(光・・・・・というか月の表側)と相手役(影)。他に重要な役は、豊臣秀吉とねねだけ。忍びのさぎりと七本槍の福島正則も、まあそこそこ主だった役にカウント出来なくもないかな??? 外部脚本家である大石静氏は、宝塚歌劇団における人数を脚本においてあまり重視はしてなくて、見事に茶々中心ドラマをつくってしまっていた・・・・・・・・。

 茶々という役は、火の球みたいな勢いで芝居するののすみにはどんぴしゃりの役だった。すさまじい熱で、石田三成を巻きこんでいく。茶々さえいなければ、三成はもっと穏やかな人生を歩めたんではなかろうか?茶々さえいなければ、疾風は下手に人間的な味なんて身につけずに生き残れる人だったのではなかろうか。
 ののすみはビジュアルが売りの人ではないけれど(^^ゞ、熱量のある可愛さがはまっていて、熱量が低めな二人の相手をぐいぐいとひきずりまわす。

 しかし、ショーは・・・・・・・・・トップ、二番手、トップ娘の三人ともに、歌が得意な人ではないがゆえに・・・・・・・・・歌は怖いことに。その分、三番手の北翔海莉くんの美声が際立つし、七瀬りりこ、百千糸といった娘役シンガーの歌も楽しめるし、下級生ダンサー達ががしがし踊る姿も楽しめる、といった方向はさらに突きつめられてきてはいる模様。

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2011年3月 7日 (月)

宝塚宙組「記者と皇帝」観劇記

 日本青年館の2階席で、宝塚宙組公演「記者と皇帝」を観劇。

 見始めてから、観劇日選定にちょっと失敗したかな、と思ってしまった・・・・・・^^;
 前日の晩にパルコ劇場で「国民の映画」を見たばかりだったのだ。演技力が高い役者達が作る濃密な空間を見てから24時間も過ぎていない時に、青年館という本来は芝居にはあまり向かないすかすかした空間で宝塚の下級生達が中心になって活躍するコメディ基調のお芝居を見るというのは・・・・・・・なにやらすかすかした感が強くなってしまうのだった・・・・・・・・・。宙組の生徒さんは基本的にあまり宝塚的に濃い芝居ではないので、こうしたコメディ基調舞台を近い席でなく2階席といった位置から見てしまうと、すかすか感を感じさせられてしまうのかもしれない。

 観劇のきっかけは、作・演出が大野拓史さんであるということだった。彼が19世紀後半のサンフランシスコで、ノートン一世と呼ばれる人物が活躍する時代を描く。時代や人物を細かく調べ上げて舞台やプログラムに反映させる人で、そのオタクっぷりが好ましくて、当たりはずれはあるけれど、ちょっと贔屓している演出家さんである大野氏が、今回はどんな舞台をつくるかなあ、とわくわくしながら出かけた。

 主人公は、記者になろうとしている青年アーサー・キング・ジュニア。北翔海莉くんは、若干地味だけど、歌声が素敵な男役さん。今回は、玉野和紀さん振付によるタップシーンで、ここぞとばかりにタップの実力を見せつけてくれる。
 ただ、初の東京での主役公演。可愛い役ではあるんだけど、二枚目として魅せるという側面を押し出してはいないのは、いいのかなあ???
 コインの裏表でどちらが牢を出るかをロレッタと決めるシーンとか、実に可愛い。ガキっぽい、小学生男女のような姿。可愛いんだけど・・・・・・・いいのかなあ?

 ヒロインのロレッタがアーサーと喧々諤々しながらも仲良くなっていく様は可愛いんだけど。ロレッタのれーれ(すみれ乃麗)は、やはり芝居声が宝塚娘役声として訓練されてないという印象・・・・・・。歌の破壊力よりも、そちらの方がまずいように思う。男役とのバランスを考えると、娘役の声って、少し高めの音域で芝居声を作らなければまずいはずだけど、彼女は低めの地声の音域で芝居しちゃっているように見えるんだ・・・・・。

 マーク・スティーブンスンの十輝いりす君が、渋く男らしくかっこいい。こんな渋さをいつのまに身につけたんだろう。私がいりす君の名前を覚えたのって、「BOXMAN」に出てきたとっぽい男の子だったなあと思いだすと、なにやら隔世の感が・・・・・・。

 タップダンスシーンがタップダンスシーンとして独立してしまうのではなく、モールス信号という形で物語に組み込まれる設定は面白かったな☆

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2011年2月27日 (日)

宝塚雪組「ロミオとジュリエット」・・・愛し合う二人、ではなく、恋をする二人

 東京宝塚劇場2階B席センターブロックで、友達と一緒に、宝塚雪組東京公演「ロミオとジュリエット」を観劇。
 去年の星組版は未見。東京に来てくれなかったんですもの(:_;) 動画を閲覧したりして、このミュージカル観たい観たい観たいと思ってたので、雪組で再演してくれて東京にも来てくれるというのは嬉しいことだった。
 ダブルキャストのジュリエットは舞羽美海ちゃんの回。いつもミニオフ開催しているOMC貸切公演がミミちゃんの回だったということもあるが、去年に青年館で「オネーギン」のタチヤーナのミミちゃんと「はじめて愛した」のナタリーの夢華あみちゃんを見て、「ヒロイン位置で観たいのはミミちゃんの方かなあ」という感想を持ったためというのもあった。

◆全体的印象

 王道で正統派のミュージカル!
 王道な恋物語。なにせシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」だ。

 盆が何度もまわり入れ替わるセットの動きがドラマチック。
 照明がとても綺麗。
 1幕は主にKAZUMI-BOY振付、2幕は主に桜木涼介振付のダンスがいい。個々のダンサーの技量で見せるタイプの振付ではなく、群舞のフォーメーションで表現するタイプの振付。
 衣装がいい。青・紺系統の色で表現されるモンタギュー側。赤系統の色で表現されるキャピュレット側。
 ダンスや衣装といったような視覚的にわかりやすい形で、一族の結束と排他性を表す。
 曲がすごく良い。何度も何度も繰り返し聞きたいような、激しい曲、ポップな曲、メロディアスな曲。「世界の王」「僕は怖い」「天使の歌が聞こえる」「エメ」「娘よ」「どうやって伝えよう」。素敵なナンバーの山。
 そして、歌がいい人が多い。


◆ロミオの恋とジュリエットの恋

 お互いに対して激しく想いを燃やすロミオとジュリエット。
 でもこの二人は本当に相手を見ているのかな?
 向かい合って愛を語ってはいるけれど、ロミオはジュリエットそのものではなくジュリエットという姿をした何かを追っているように見えるし、ジュリエットもロミオそのものではなくロミオという姿をした何かを追っているように見える。

 「僕は怖い」と思い続けてきたロミオ。死の影におびえ、キャピュレット家との対立に心を燃やすモンタギューの人々に同調しきれず、友はいても深い孤独感を抱き続けてきたロミオ。

 本を読む少女、夢を見る少女であるジュリエット。キャピュレット家の借金清算のために、全く夢とは異なるタイプの男であるパリスと強引に結婚させられそうな事態から逃避したいジュリエット。

 二人は出会い、その出会いを「遂に出会えた」と感じる。

 直感こそがすべて。だから彼らは相手への想いに身を投じる。
 日々抱いてきた恐怖を忘れさせてくれるかもしれない少女。
 待ち続けてきた冒険のような恋を体現してくれそうな青年。
 
 でも彼らは本当に相手の真の姿を見ているんだろうか?

 ロミオはジュリエットに対して愛を語るが、今まで自分が抱き続けてきた両家の対立に対する複雑で屈折した思いや死への恐怖の思いについては特にジュリエットには語ってない。
 夢見る少女のジュリエットはロミオの前では見せない姿を持つ。愛し合ってはいない両親に対する強い非難の思い。それを実際に口にする際の容赦なく頑なともいえるほどの強さ、こわさ。ためらったり悩んだりすることもなく、一瞬のうちに死を選べる直情。

 相手の真の姿を見極めない状態で語る想いは、恋ではあっても愛ではない。
 原作の二人もそうだけど、このミュージカルの二人は、二人の間にあるのが愛ではなく恋なのだということをさらに際立たせる。

 演者の持ち味のためにそう見えるというのもあるかもしれない。
 ロミオのキムちゃん(音月桂)は、一人で演技してしまっているように見えることがある。昔はそうでもなかったんだけど。そこに共にいる人との間のやりとりに、思いをがっちり交わし合おうとしているようには見えない局面が増えている。マキューシオとベンヴォーリオとの関係も、共にいることで親しさを表現しているけれど、思いのかわしあいといった点においては何か希薄。その希薄さがこの舞台におけるロミオの孤独感を強調し、だからこそ、「遂に出会えた」と思えた相手であるジュリエットに対して加速していく心情をも強調する。そしてその希薄さによって、《言葉こそは熱いけれど、本当のところではジュリエットそのものを見てないんじゃない?》という印象を抱かせるんだ。

 ジュリエットのミミちゃんは、「オネーギン」のタチヤーナに続き、本を読む少女、夢を見る少女といった姿が似合う。社交性が欠けて地味な印象を周囲に与えがちだった「オネーギン」前半のタチヤーナに比べると、乳母との密接な関係があることによってその可愛らしさ、若い少女らしさ、弾ける思いをうちだしやすいジュリエットというキャラは、もう少し明るく華やかな印象ではある。夢見る少女が「遂に出会えた」という思いと共に夢の中に身を投じ、他の何物をも恐れなくなる。そこにロミオという人の存在は本当にあるんだろうか?

 そんな、若くて青い恋を演じる二人。宝塚ってやはり綺麗(#^^#) 青年と少年の狭間といった不安定な時代を、結構骨っぽい男役として出来あがってきていたはずのキムちゃんが絶妙に演じ、まさに少女であるジュリエットをミミちゃんが可愛らしく演じる。


◆その他

●歌うまさん双璧は、ベンヴォーリオのまっつ(未涼亜希)とキャピュレット卿のヒロさん(一樹千尋)。本日のミニオフ参加者には、まっつが一番贔屓という面子は一人もいなかったけれど、例外なく皆ベンヴォーリオまっつを絶賛だったような♪ ジュリエットの死についてロミオに「どうやって伝えよう」のソロ、終盤でファルセット。ファルセットってこんなふうに歌をドラマチックにするものなんだ・・・・・・聞いているこちら、体内に電流が駆け抜けていったという感触を味わう。

●キャピュレット卿のヒロさんのソロ「娘よ」。愚かな父の切ない思いをうたいあげる歌が素晴らしい。ヒロさんの歌は、声がいいだけじゃなく、歌い方がドラマチックなのだ。男の弱さ、愚かしさを演じる時に、ヒロさんのドラマチックな歌声と芝居って一番魅力的に見える。

●両家の夫人も歌うまさん。キャピュレット夫人に晴華みどりちゃん。モンタギュー夫人に麻樹ゆめみちゃん。

●キャピュレット夫人とティボルトの間のセクシャルな関係が描かれているロミジュリって結構多いな。私がはじめて出会ったその手の設定のロミジュリは、タニス・リーの「影に歌えば」だったなあと懐かしく思い出す・・・・・・・。

●緒月遠麻くん・・・・・るんせるは基本的に骨太系男役さんが好きなので緒月くんのことが昔からとても好きなんだが。男の子、じゃなくて、男!という形がきちんと出来ている男役さん。・・・・・・・・そういう意味では、ティボルトのような青い少年は柄違いかも・・・。

●パリスが最後の方で出てこない脚色にびっくりした。
 霊廟に横たわるのは美しい恋人同士である二人だけ、とするため?
 ロミオを、ティボルトの後にもさらに人殺しをする愚か者にしないため?
 でも、重要キャラであるはずなのに、なんだか中途半端。
 キャピュレットにもモンタギューにも属さないパリスは赤衣装でも青・紺衣装でもなく白衣装。

●霊廟に横たわるジュリエット。青かった。青なんだ、キャピュレットなのに。

●フィナーレで音月桂ちゃんが赤い衣装で踊る。やっぱりね。
 二つの勢力が対立する物語の後にくるカーテンコールって、所属するグループじゃない方のグループの系統の衣装とかメロディを担当したりすることが多いから。
 でもそうであるからこそ逆に、男役四人とか男役五人で同じ色の衣装で踊る場面に違和感感じてしまったりもするんだけど(笑)

●フィナーレの構成がいびつ。トップ娘役が一人で固定でないがゆえに。ロミオとジュリエットという物語を見終わったら、フィナーレではデュエットタンスが見たい。

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2011年1月15日 (土)

宝塚宙組「誰がために鐘は鳴る」雑感

 東京宝塚劇場の2階B席センターで観劇。

 「誰がために鐘は鳴る」という作品とのはじめての出会いは、多分、テレビで見た、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの映画。田淵由美子の「夏からの手紙」という漫画の主人公達の映画談議のおかげで、映画の「鼻は邪魔にならないのね」の台詞の存在は知ってたのだけど、目にとびこんできたのは、ロマンチックラブストーリーよりも硬派なゲリラ達の日々の印象が強い物語だった。
 映画を見た後、原作を読んだ。たった四日間の中に、戦争の様々な姿、戦場の様々な姿がぎゅっと凝縮された物語。当時のアメリカ人のいかにもアメリカ人的な政治感覚から描かれた反ファシズムの戦いの物語。反ファシズムという一つの信念から義勇兵として戦場に身を投じたアメリカ人インテリ男性が、戦場では理想を語ったり夢見たりするのではなく、目的に達するための一つ一つの任務を職業人のごとくこなしていく。理想と現実の中でどちらかに大きく傾きすぎたり迷ったりせずに、目の前の現実にしっかり集中し、外国人でありつつも現地の現場の人達としっかりコミュニケートできる男であるロバート・ジョーダンをかっこいいなあと思いながらの読書だった。今読み返すと、反ファシズムとソ連の繋がり方へのアメリカ人的な懐疑なども書きこまれていて、スペイン内戦を描く物語としてはやはり破格な面白さで仕上がっている小説だなあと思う。

 ロバート・ジョーダンのいかにもなかっこよさを、大空祐飛くんが体現。
 刹那の四日間を輝かせる恋人マリアに野々すみ花ちゃん。少女でありながらも体験せざるをえなかった過酷な体験によるトラウマで、正気と狂気の隙間のような位置にいて、奇妙なテンションを見せる少女。ののすみのマリアは短髪が似合い、色気の無い少女っぷりが似合い、そして狂気にも近いようなハイテンションがぴったり。

 ピラールとパブロという大事な大事な役を演じる専科さん二人がちょっとキャラ違いに思えたり、ゲリラの男たちの物語が、場面はあるにもかかわらず何故か舞台の前面に出てこない印象だったりするのは残念かな。エル・ソルドの風莉じんのインパクトがとんでもなく力強かったりすることを思うと、場面の多さ少なさの問題ではないような気も。
 百千糸、七瀬りりこといった宙組娘役美声歌手がきちんと使われているのは良かった。
 柴田脚本については、ラクロの「危険な関係」の脚色を見た時も思ったのだけど、「原作の解釈がなんか違うような?」といった疑念を今回もやはり抱く。アウグスティンの「戦争なんてくだらねえ」の台詞の扱い方や、オリジナルキャラの女性ローサの出し方など、何か過剰にセンチメンタルになってしまっている印象。

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2010年11月23日 (火)

宝塚花組「メランコリック・ジゴロ」雑感

◆久しぶりの花組

 花組公演観劇は久しぶり。
 いつ以来かしら、と思って調べてみたら、去年のツアー公演「哀しみのコルドバ」「Red Hot Sea II」以来。なにこの、私の花組へのつれなさ。芝居担当演出家に、キムシンだとか中村Sとか石田なんてのがきたからいけないんですよ・・・・^^; 
 今年は多分、これが宝塚観劇おさめになります。

 ショー「ラブ・シンフォニー」では、寝ることはなかったけれど、いかにも《番付はこれですよ!》みたいな感じで、小規模になったからではの新たな下級生実力者発見をさせてくれる醍醐味がほとんど無いあたりにもにょもにょという気分になったので、お芝居「メランコリック・ジゴロ - あぶない相続人 -」の方の感想のみいきまーす。
 オリジナルは1990年代前半の、正塚晴彦氏が一番いい作品を描けていた頃のコメディ。
 さいたま市文化センター、3階最前列での観劇。


◆お芝居雑感

 ストーリーのテンポはいいし、人数は使いこなされていて男役にも娘役にもやりがいのある役はいっぱいあるし、良質のコメディだからこそ訪れる、最後のあったかい気分。

 登場人物みんな大好きだ。お人よしちゃんジゴロのダニエル。ダニエルをいちいち詐欺の計画にひっぱりこむけれど結局一人じゃ大したことは出来ない奴スタン。睡眠口座詐欺進行に騙されてダニエルを実の兄アントワンと信じ込んじゃった、とろいけれど真っ直ぐな女の子フェリシア。頭のネジがどっかにとんじゃっててるとおぼしき、でも恋人スタンを心から大事に思っている変な娘ティーナ。睡眠口座詐欺を発端に、借金返済をダニエルに強引に迫りだしたアントワン&フェリシアの叔父フォンダリ。フォンダリの息子で、「俺にまかせりゃ一発だ」を繰り返す一発バカ男バロット。夫バロットにきっつい言葉を浴びせかけ続けるけれどホントは夫を愛しちゃってる妻ルシル。スタンが利用する気弱な弁護士マチウ。フォンダリを追っかけているでかぼこコンビ刑事のベルチェとロチェ。ダニエルのパトロンなのにダニエルの浮気(?)につんとしてテニス選手に鞍替えしちゃったレジーナ。ダニエル(&スタン)に騙された田舎娘のやかましい女の子アネット。いつもいつもダニエルに酒をおごってもらっている浮浪者の男。
 テンポがいいコメディで、最後は皆、それぞれの形で幸福感と安寧を得る。一般的に幸せと言いきってしまっていいものかどうかはわからないけれど、それぞれの人達にとってはそれぞれにそれは幸せ。


◆寂しい、寂しくない、寂しい、寂しくない

 最近の正塚晴彦オリジナル脚本のヒーローは、孤独感を重く背負っているものが多かったけれど。
 17年前に上演されたこれはそんなことはないではないか。

 「一人だったんだ。」「一人っていやね。」

 「これからは孤独じゃないよ。」

 「一人だったり、ついてなかったり、いい事何もなくても生きていりゃあ・・・、そういう奴はな生きてても人に嫌な思いさせない、そういう事だよ。そしたらもう、多分一人じゃない」

 「本当に大切なことは一つきりでいいんだよ。それさえあれば、そこから波が広がるみたいにいろいろなことが大切になっていくんだ」

 寂しいって嫌だから、主人公のまわりには人が沢山いる。
 だます奴もいればたかる奴もいるし、誰もが真摯な気持で主人公のそばにいてくれるわけではないのだけど。
 人がいるから、寂しさを忘れられている。
 飲んで騒げば寂しさを忘れていられる。

 一瞬の関係かもしれないけれど。
 酒だけがつなぐ関係かもしれないけれど。
 でも、確かにそこにうまれるあたたかなつながりが少しずつ少しずつ少しずつ広がっていく。ほんのりとしたあったかさ。

 そういえば、昔の正塚作品って、《正塚といえば飲んで歌って騒ぐ場面がある》とか言われてなかったっけ?(?)

 それすらも消え失せていっている最近の正塚作品って、そりゃまた寂しいなあ^^;

◆キャスト雑感

 一昨年の中日劇場版を見たかった、というのが正直なところでもあるかな。
 その後のツアー公演がこれだったら喜んで出かけていったのに、「ベルサイユのばら」外伝なんていうツアー演目だったので、いきなり観劇意欲が地の底まで落ち込んでいってしまったのよねえ・・・・・・・・。

 蘭乃はなちゃんの、トップ娘ちゃんになりたてのういういしさってのは、フェリシアにはまるかな、と思ってたんだけど。

 あれ?

 うーーーーん、声。不安定ではないんだけど、使いこなせていない?って、比較基準が初演の森奈みはるちゃんってのはまずすぎるか。みはるちゃんは声の使いこなしがとんでもなくうまい、うますぎる子だった・・・・・・。

 蘭はなちゃんの声音は、しっかりした声音だった。
 別の作品の現代ものヒロインだったら、この声音は悪くなかったと思う・・・・・きっと。でも、ぐずでとっぽいフェリシアだと、どうなんだろう・・・・・・・。

 蘭はなちゃんが一番魅力的に見えたのは、ショーでがしがし踊る姿だったかなあ。お芝居については今のところ、よくわからない・・・・・という結論。

◆昔のプログラム

 帰りの電車で脚本を読もうと思って、過去の東京公演プログラムを本棚から発掘。
 昔のプログラムっていろいろ面白い。「主な配役」の欄は、今みたいに、機械的に学年順・成績順ではなく、フォンダリ、バロット、ルシルがひとかたまり、みたいな感じで、内容に呼応した形の紹介欄になってるので見やすい。
 生徒さん写真と場面表と脚本が全部載ってて500円だったしなあ(涙)

 まだぴちぴちの新人だった頃の春野寿美礼、朝海ひかる、瀬奈じゅんといった人達の、下手なメイクの写真も載っててラブリー♪

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2010年11月 5日 (金)

宝塚雪組「はじめて愛した」雑感

 日本青年館2階センターブロックで、キムちゃん(音月桂)雪組トップお披露目公演「はじめて愛した」を観劇。

 最近の正塚晴彦脚本はハズレと思ってしまうことが多かったので、
「これがダメだったらもう見限ろう」
とひそかに(?)決意してたのだけど・・・・・・・1幕を見た限りでは、なんとか見限らずに希望をつないでもいいかもしれないかなあ^^;;; 2幕の終わり方はあまり納得いかないけれど。「銀の狼」をちょっと明るくしたみたいな感じの舞台だった。
 正塚作品はしばしば、戦いの緊張の日々の中にずっといた男が戦乱が終わって《平和》と表現される日常に放り込まれた時、焦燥感、正義感、怒り、虚しさといったような感情に翻弄されている姿を描こうとしている。マンネリと言われてはいるが、不器用なまでにそれにこだわり続ける様はキライではないのだ。多分、作者の彼自身が若き日からずっと決着をつけられずに同じ所をぐるぐるまわりながら、辿り着ける場所を探しているんだろう。探し方(=描き方)が年々甘くなっているので、一生、目当てのものには到達できないんだろうけれどな。

 と作品に関して思った一方で。

 「オネーギン」に演技巧者をかなりかっさらわれちゃった?
 という演じる人達への不満感がかなり残った。
 折角のお披露目公演なんだから、組を二分せずに万全の態勢でのぞませてほしかった。

●キャスト印象

 主人公である殺し屋のガイのキムちゃんは安定した巧さとかっこよさ。冒頭シーンの銃をかまえる形が決まっている!
 ただ・・・・・孤独感を抱えながら生きてきた男という、いかにも正塚作品ならではの雰囲気の漂う人物であるためか。
 舞台上で他の人物と絡む時に、絆というか、共に舞台にいる空気感というか、そういったものがあまり見えない。
 アッシュの未沙のえるさん、昔の仲間アンリの凛城きら君との並びにおいてはそうでもないんだけど。
 ヒロインであるレイチェルの愛加あゆちゃんとの並びにおいて、1+1が2以上になる雰囲気を醸し出せてない。
 準ヒロインであるナタリーの夢華あみちゃんに銃を向けられる場面においても。

 他のキャラとはそもそも、精神的な絡みといえるような場面がなかったりするので、一人で演じちゃっていると言いきってしまうと気の毒かもしれないけれど、ヒロインとの並びが平行線に見えたために、そんな印象に・・・・・。

 レイチェルのあゆちゃんの舞台姿、はじめて意識して見た。
 可愛いといえば可愛い。でも、なんとなく野暮ったい感じで、記憶喪失や居所の無さゆえに不安定感がこどもっぽく見え、守ってあげたい儚げな女性というよりは、庇護すべきこども。なんでこの子をガイが意識するようになったのかに説得力がいまひとつ。かつて戦場で救えなかった少年の面影を重ねてしまうことから始まったというのはわかるんだが、その後に、庇護すべき子から守りたい女性の位置にレイチェルが昇格していくという流れがよくわからない。後半、ガイに精神的に依存するような感じで「私はどうしたらいいの?」と問いかけるあたりにおいては・・・・・ガキっぽいなあ、一人で立てないような女の子になんでガイは惚れる????といった反感も感じてしまい、最後の最後まで、この男女の並びには納得がいかないままになってしまった。脚本的に、演技的に、納得がいく存在であれば、この物語にもっと入り込めたかもしれない。

 巧いなあと感じさせられるのは、ラストシーンでの幸せな成り行きを見守る立ち姿、動き方に独特の味がある未沙のえるさん。出番がびっくりするほど少ないにもかかわらず表情や立ち姿が印象的で、娘に依存しつつ娘を気遣う疲れた母親であるアンヌを演じた舞咲りんさん。
 若手男役さんや他の娘役さんに関しては、そのポジション相応の期待水準を超えるものには出会わせてもらえなかったといった印象。


●視点の問題

 過去の傷や現状の不安定感から精神的な居場所を定められない男のモノローグの進行ばかりが続く正塚芝居。

 正塚芝居を見ていてよく感じるのだけど。
 描写の視点を置き換えてみると、少し変わった印象になったりして、飽きたと言われずにすむ可能性もあるのでは?
 男を描くにあたって、視点をその男に置くのではなく、別の人物の視点からその男を描出するといった作劇にしてみてもいいのでは?

 この舞台、終盤はヒロインのレイチェル視点になる。ガイが撃たれる姿、その顛末については、主にレイチェル視点で語られる。

 なら、物語導入部もレイチェル視点にしてしまってもよいのでは?と、演者のヒロイン力はおいといてちょっと妄想してみる。

 追いつめられた状態。死んでしまおうと決意する気持。
 その時、視界にとびこんできた、銃を持つ男。そして発砲。
 男に気づかれ、どのみち自分は死ぬつもりであったことを思い出し、身を投げる。
 そして病院。
 何も覚えていない状態。自分の名すらも覚えていない状態。
 問いかけてくる人々の言葉、語りかけてくる人々の言葉がすべて、遠くから聞こえてくるような状態だったのに、ただ一人、すぐそばで聞こえる声で語りかけてくる男がいる。これは誰だろう?何故自分はこの男の声だけ近くからのものとして聞けるのだろう?何故?何故?何故?
 ガイと名乗るその男のもとに引き取られる。なんとなくわかっている。ガイが言う言葉は嘘だ。自分はガイとは近しい存在ではない。なのに、心はガイという人に近いように思える。何故?
 だけど、本当の事を言っているわけではないガイは、それでは何故自分に近づいてきたの?何故?

 といったような視点で始まる形で、謎の男のガイをかっこよく描きながらだんだんその本来の姿を見せていき、そしてヒロインと近づけていくというような形をとっていれば。
 終盤で物語の視点がいきなり別人にかわったというアンバランスな感じもなかったかもしれないのになあ^^; 謎の男への疑問を抱きながら、何故彼が自分をそばにひきいれたのか、そこにある感情はなんなのか???というのを女の視点から描くようにはじまっていれば、ラブストーリー部分においてわくわくするものになっていたかもしれないのにな。

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2010年10月21日 (木)

宝塚雪組「オネーギン」---トドロキ&雪組さん真骨頂

 日本青年館の2階B席センターブロックで、宝塚歌劇雪組公演「オネーギンEvgeny Onegin -あるダンディの肖像-」を観劇。初日だけの予定だったんだけど、結局週明けにもう一回見て、さらに青年館の楽にも行ってしまった。当初は楽に行くつもりは全然なかったんだけど、サンシャイン劇場で見る予定だった新感線のお芝居が公演中止になってしまって、悲しくて心配でどうしようもない気分に陥ったので、これはもう青年館千秋楽に行くっきゃないよなあ、と・・・・・・。あ、ちなみに3回とも2階センターブロックです^^; こんなに行くんなら一度くらい一階席を狙えばよかったかしら。

 プーシキン原作。植田景子の作・演出。
 プーシキンの小説は「大尉の娘」と「スペードの女王」しか読んだことがなかったので、観劇前に慌てて原作を読んでから出かけた。オペラ版やバレエ版は未見。

 宝塚歌劇にはロマノフ王朝時代のロシアがよく似合う。
 「誓いの首飾り」とか大好きだったなあ。


●轟・真骨頂

 そして、轟悠ですよ!!!!
 私は昔っから轟大好きなので、割り引いて聞いていただいて構いませんが^^; トドロキのお芝居で素敵!リピートしたい!と思ったものはここ最近はなかったんですよ。妙に若づくりしたものは、可愛いっちゃあ可愛いけれどこそばゆくなるし。貫禄ある偉そうな男を見ると、なまじ貫禄が身に付いた男役さんであるだけに、蹴飛ばしたくなることもしばしばだし。ひどいこと言ってるなあ、それでもファンなのか? まあそんな感じなので、ショーで素敵素敵と思うことは多々あれども、芝居で素敵!と乙女ハートになったのは、実は「風と共に去りぬ」のレット・バトラー(日生限定^^;)だとか、「凱旋門」のラヴィックにまでさかのぼらないといけない私なのであった。

 そんな私が、乙女心直撃されました。これよ、これよ、こんなトドロキが見たかったの!!!!! 
 大人の男として恋愛をするオトコを演ずるトドロキ。
 つきあう相手や恋を打ち明ける相手が今までは、年上の女だったり、男女関係についてわかっててうぶではない女だったりばかりで、恋に恋しているかのような清らかな夢見る少女が相手だったことはなく、強く惹かれているにもかかわらずその気持に没入することからひいてしまう臆病なオトコを演じるトドロキ。

 大人だけど、すかしてるだけじゃなくて、想いゆえに理性が崩れる馬鹿な哀れさをも見せるトドロキ。再会した彼女は、いつもいつも本を手にしているかつての少女ではなく、隠し持っていた知性や品を残したまま大人の女になり、見下ろす位置にいるのではなく、同じ目線の位置、もしくは見上げるような位置にきてしまっている。かつては世間を知ってしまっている大人の男としてかけることの出来ていたブレーキが、あっさりとはずれてしまう。そんなふうに脆くも崩れ去るオトコを演じるトドロキ。

 周囲と芝居の空気が違いすぎることはなく、変な壁がなく、共に芝居をする人と同じ空気を吸っているとおぼしきトドロキ。

 1幕の若い貴族青年姿も素敵だけど、5年後の2幕のお髭はやしたダンディな姿も素敵。そしてお衣装が似合ってどれも素敵。

 トドロキの舞台姿って、生真面目さが透けるので、放蕩っぷりを演じても、どっか知的で品があって、根っこにあるのは別のものなんだっていうのが掴みやすいな。


●雪組真骨頂

 本を読む少女タチヤーナの舞羽美海ちゃん。綺麗で可愛くてヒロイン然としてて素敵。五年後の再会の際の、貴婦人となったタチアーナも、清楚でありつつも大人っぽい存在感。

 オネーギンの数ある恋人の一人、奔放な彼にいらつきながらも彼に理解を示し、彼にとっても安らげる相手である女ニーナ。涼花リサさん。綺麗で艶やかな本当にいい女役さんになった・・・・・・・・。

 ある革命思想家といった名の役で緒月遠麻くん。オネーギンの親友で、彼をデカブリストの乱に引き寄せる役割を担う人。
 緒月くんとトドロキって学年差いくつあるんだっけ?そんなことを感じさせない存在感を発揮している緒月くんは、男役としてがっちり完成された実力派だなあ、としみじみ。歌劇団にはこういった力のある男役さんを大事に大事にしていってほしい。
 縮れっ毛が可愛い。

 オネーギンの母の美穂圭子さん。オネーギンの伯父ワシーリィの一樹千尋さん。安定した、重みのある巧さ。ヒロさんにソロナンバーがあるのが嬉しい♪

 グレーミン侯爵の香綾しずる君。オネーギンとタチヤーナの激情会話が終わった後に現れて、妻タチヤーナと共に去っていくわけだけど。去る前にオネーギンを見る姿。オネーギンに対しての疑念の言葉を口にするわけではないのに、立ち姿・表情に、疑念やらオネーギンへのあわれみやら蔑視やらがあらわれている。台詞がなくともそういった感情を表現できるのはいいないいな。若手男役さんなのに、お髭のおっさんが似合っている。

 カテリーナの花帆杏奈さん。亡命フランス貴族。ある革命思想家の緒月くんの想い人。花帆杏奈さんのお名前って、2002年の「ホップスコッチ」のルーシーで覚えたんだよなあ。綺麗なんだけど、あまりにもそのすさまじい棒台詞で^^; あれは芝居が平坦すぎたのでその壊滅っぷりが逆に芝居にメリハリを与えていたかのごとき印象で、とにかくお名前は脳裏に焼き付いたのだった。その頃に比べると、学年重ねてきたことによってか、独特の存在感やら女っぽさやらが身についてきていて、ものすごく場面になじんでいるということにびっくり。うまくなってきたということなのか。


●その他

 音楽は、特に第一幕で、メロディラインがあまりロシアっぽくなく、ブロードウェイミュージカルやらハリウッド映画にありそうな雰囲気のメロディラインといった感じで若干の違和感。

 バウホール&青年館作品だというのに、衣装に力が入っているのは植田景子作品だから?私は衣装について記述する能力皆無なのであまり書けないけれど・・・・・女役さん・娘役さん達のドレスがとても綺麗だったし、オネーギンが着替えるあれこれの衣装も素敵だったな。

 フィナーレがものすごくかっこいい。赤い照明の中で黒っぽい衣装の男女が激しくシャープに踊りまくる。センターで踊る舞羽美海ちゃんがかっこいい。

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