アニメ・コミック・ゲーム

2011年12月 9日 (金)

年末に読んだ漫画

 11-12月に買った漫画の感想をまとめて記載。

●小花美穂「HONEY BITTER」(7) (集英社)

 珠里が過去の恋人・吏己と正面から向き合う巻。何か事件が起きそうな予感を漂わせつつそれは次巻以降に持ち越し。最終頁を見る限りでは、次巻では珠里と陽太にも何か異変が起こってきそう。いよいよ、吏己の件が陽太にばれる時がくる!?

 巻末に、雑誌に掲載された、DEEP CLEER発売記念漫画が掲載されている。掲載無の可能性もあるかなあ、と思い、雑誌を切り抜いてあったんだけど、心置きなく切り抜きを捨てられそうでほっとした。


●樹なつみ「花咲ける青少年 特別編」(2) (白泉社)

 ハリー編とルマティ編。
 ルマティにはさっぱり興味が無いんだけど、ルマティ編の「青皇に庭」はとても面白かった。「八雲立つ」以降、樹なつみ漫画は輝きを失ったと思っていたんだけど、普通に面白いじゃん?というか、ある意味、本編よりも面白かったりして?
 物語を動かしているのは、この中編のみ出演のせこいチョイ悪役青年ジニアス。上昇志向が強すぎて結局挫折してしまう少年。悪役をはるなら、もうちょっと頭が良ければいいのに。クインザと話す際にうっかり、クインザの弟である上司セザンを呼び捨てにしているあたり、頭悪すぎ。ルマティづきの人数の少ない青少年たちの葛藤の上に、輝ける少年ルマティ王子と彼に悪を見せまいとする忠実なるクインザがいる。悪役のせこさが、この二人の清々しいほどの雰囲気を強調してくる。
 ハリー編の「Inocence」は、若かりしハリーとその妻となる前のキティの恋物語。ハリーから女好きの部分をとったら立人かも、といったような性格だな、これは。
 最終巻である次巻には大トリで立人が登場するのだそうで、これはとても楽しみだ。でもお願い、花鹿を下手な描き方することによってテンション下げないでね。作者は男は魅力的に描けるけれど、女性キャラについてはいつもあまりうまくない。今回、キティも特には・・・・。


●田村由美「7SEEDS」(21)(小学館)

 船上で危機に陥っていた夏Bメンバーおよび夏Aの二人のエピソードにとりあえずは一区切りがつき、行方不明に陥っていた春メンバーの花の物語に移行。人間の集団の物語として繰り広げられていた7SEEDSの物語が、花がたった一人になって動いていることもあり再び、他の動植物との戦いをも交えたサバイバルの物語になる。
 花はあまり好きなキャラクターではないのだけど(自分を美人と自覚・認識できている状態で他者と接しているあたりとか・・・)、こういうサバイバルのエピソードで動かすとなると、やはり花を持ってくるのが一番ぴったりくるものなんだなあ。生きることに執着しながら水を得るために連日努力する姿など。

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2011年10月11日 (火)

SWANモスクワ編読んだ—-2011年秋号

 ただ今私、入院中。しかし、スワンマガジン新刊購入のために、外出届を出して本屋に行った私であった。10/8に某書店で購入。

■アグリー・ダックは、子ども時代に孤独の中にいたリリアナの心の叫びを描くものであり、だからこのバレエは観る者が彼女の人生を追体験する物語である。セルゲイエフ先生は、マクシモフ氏に、リリアナと自分は同じ魂を持って生まれたのだと語る。

(感想)

 アグリー・ダックの原型を見せるために、リリアナ主演のアグリー・ダックに大きな頁数が費やされる。1970-80年代と今では有吉京子の絵柄は若干かわってきてはいるが、絵柄の変化がリリアナ自身の変化となにげなくリンクしているようにも見える。
 その後に真澄が踊るのは、おそらくは、原型とは全く異なるものとなるということなのだろう・・・・。リリアナもマクシモフ氏モセルゲイエフ先生も、それを期待しているだろうし、多分、水先案内人を演じるレオンの役どころも、セルゲイエフ先生とは全く異なるものになりそう。
 意外と、真澄とレオンの間に、≪対立≫が描かれるような関係性だったりして(笑)


■真澄は、リリアナの神がかったコンテンポラリーダンスの場面を見ても、自分自身のアグリーダックを躍るのだというゆるぎない自分への信頼ゆえに落ち着いている。リリアナはリリアナ、自分は自分。「春の祭典」の乙女をおどってから、自分の中で大きく何かがかわった、自分の中でアグリー・ダックをおどる準備ができたのだということを、真澄は自覚している。

(感想)

 ここまで言及されるのなら、真澄がアグリー・ダックを2度おどるチャンスがあるから1回は失敗回にあてるなんていうイライラは予想しなくて大丈夫かな?
 はやく真澄のアグリー・ダックの完成形と彼女ならではの役解釈が動きに反映されるところが見たい。30年待ったのだもの(笑)

 奇跡の場面は美しいが、はじめて東京でのコンクールの短い抜粋場面を見た時とは印象が若干違っている。あの時のリリアナが演じた奇跡は、天使の覚醒だった。今のリリアナが見せる奇跡は、人間であるリリアナが覚醒する美しさだ。

 リリアナの相手役として水先案内人を演じるセルゲイエフ先生の表情からは、緊張と緊迫感のまざる厳しめのものが消え、二人のアダージョは信頼感と幸福感に満ち満ちたあたたかなやわらかさ。
 踊り手がかわって真澄とレオンが組むと、このアダージョもどう変わるんだろう。わくわくする。
 リリアナのアグリー・ダックは人間にと近づいていったが、真澄のアグリー・ダックは、物語の流れを見る限り、人間や地上の強調とは別の次元のものになっていったりもするんだろうか。一方の水先案内人のレオンは、抽象的な存在であるセルゲイエフ先生の水先案内人とは別種のものになったりするのだろうか?

 水先案内人の役割強化は、ストーリーを眺める限りでは、リリアナとセルゲイエフ先生のパートナーシップをより描くこと以上に、真澄とレオンの関係性を今までとは徹底的にかえていくことをねらっていると思われるので・・・・。

 いや本当にワクワクするなあ。
 ぶっちゃけ、真澄とレオンの世俗的関係部分がどうなるかよりも、この二人の関係が全く新しいアグリー・ダックとどう関係するように描かれるかの方が、ずっとずっと楽しみ。


■リリアナ主演のアグリー・ダックの舞台大成功。しかし、リリアナはセルゲイエフ先生の腕の中で倒れ、カーテンコールの幕はあかない。
 不吉な予感をおぼえて楽屋に走る真澄、そしてラリサ。
 リリアナはセルゲイエフ先生に、今自分は幸せだと語る。
 あおざめている先生は「ああ、わかるよ、リリアナ・・・・私も・・・だ」と答え、「愛してるよ」と言ってリリアナの唇にくちづける。
 真澄が楽屋に着いた時、マクシモフ氏の「リリアナ、逝くな」の叫び声が。首をふる医者。嘆くダンサー達。それらが、リリアナが逝ってしまったことを示す。
 真っ青になった真澄は劇場をとびだし、レオンが真澄の後を追う。
 ラリサは真澄に少し遅れて楽屋へ。(彼は客席に残ってるのか?)

(感想)
 結局リリアナは真澄のアグリー・ダックにはまにあわなかった。
 リリアナの死そのものよりも、まにあわなかったということがショックだ。
 誰よりも誰よりも真澄のアグリー・ダックを待っていたのがリリアナだったのに。
 その気持ちの強さは、セルゲイエフ先生もマクシモフ氏もレオンもかなわないほどであったと思われるのに。


■車にひかれかける真澄。かばうレオン。混乱した真澄の中では、ひかれかけた車は、実際には普通の乗用車であったにもかかわらず(車オンチの私には車種はさっぱりわからないけれど)、真澄の脳裏にはトラックの姿が。
 混乱した真澄は混乱したまま、誰を相手に何を喋っているかもはっきりわからないような状態で喋り続ける。
「わかってたのに・・・私、誰にも言わなかっ・・・だから・・・・だからリリアナ踊っちゃったんだわ。踊らなかったら・・・あんなこと起きなかったかもしれないのに・・・私のせいで・・・話したいことが・・・・一杯あったのに。もう遅い。ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・。私が・・・・彼女の手を離して・・・・しまっ・・・・私のせい・・・・で・・・・死んでしまっ・・・・」

 今はっきり明かされようとしている、真澄が抱き続けてきた≪罪悪感≫。
レオンは心を爆発させるような勢いで叫び、真澄の混乱に歯止めをかける。
「真澄!そうじゃない!ルシィの死は・・・あんたのせいじゃないんだ」

(感想)
 ついにルシィへの罪悪感の物語が描かれる局面がやってくる。レオンは今まで何を思ってあの一言を言えずにいて、そして今回何を思って言わずにはいられなかったのだろう。
 自分からあれを言い出せなかったレオンは、真澄と離れるつもりですらいたのに・・・・。
 真澄だけでなくレオンの中でも何か一つ、枷がはずれる時がきたのだろうか。

  しかし、頁バランスは大丈夫なのかな?
  ルシィへの罪悪感と真澄が今まできっちり向き合えずにいた姿と、そこからの解放の流れはじっくり描いてほしいけれど、リリアナがその晩逝ってしまったことについても、じっくり嘆いてほしい・・・・。ある意味リリアナというのは、レオン以上に、真澄にとっては不可欠な絶対的存在なのだから。

 ところで、とーーーっても世俗的感想を付け加える形で申し訳ないですが。
 真澄、そしてレオン。その服で車道に居続けるのは寒すぎますわね。お二人さん、どっかに移動しなきゃ。でも、混乱の真澄を劇場に連れ帰るのは無理そうに見えるなあ。じゃあ、次号はどっかに移動しての物語となったりするの?

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2011年9月28日 (水)

9月に読んだ漫画

●三原順「夢の中悪夢の中」(白泉社文庫)

 四つの短編「夢の中 悪夢の中」「ベンジャミンを追って」「彼女に翼を!」「帽子物語」からなる作品集。
 三原順らしい技巧の作品ではあるけれど、特に表題作である「夢の中悪夢の中」はあまりにも救いが無さ過ぎて、読む返すのが辛い。巧さゆえに、読む側は追い詰められて逃げ場をなくしてしまうのだ。三原順は、短編だとこんなふうに、逃げ場の無い絶望に読み手を放り込む。長編だと、救いも用意していたりするんだけど・・・・・・。(もっとも、「ビリーの森ジョディの樹」は完成していたら、読者に逃げ場を与えない長編になっていたのかもしれないけれど)


●遠藤淑子「スマリの森」(白泉社文庫)
●遠藤淑子「アリル~午後のお茶は妖精の国で 番外編~」(祥伝社)
●遠藤淑子「今月のわんこ生活」(2)(大都社)

 やってきました、エンコミ第三弾。今回は発売月を合わせただけで発売日はばらばらだったけれど。8月時点では私は「スマリの森」発売情報しかおさえてなかったのだけど、娘が2ちゃんねるの遠藤淑子スレッドをチェックしてたようで(+_+)「三冊同時期発売だって☆買ってね」と当然のごとく言われた・・・・・・・・・・・・。

 アリルは、優しい絵柄のわりにはハードな作品も含む短編集だった。遠藤淑子の描く物語は優しくあたたかい癒しであるが、たまに不意打ちのように、現実のきつさをダイレクトに描く物が混じってきたりする。現実の辛さや厳しさをしっかり味わい理解しているからこそ、普段描く作品群が癒しの物語となっていくという過程があるんだろうな・・・・。

 今月のわんこ生活は、愛犬エッセイ物の第二弾。私は猫派ではあるけれど、基本的に、作者が親ばかっぷりをダダ漏れにさせている動物漫画は大好きだ。世の中には、親ばかぶり垂れ流しにひいてしまうタイプの読者も多いそうだけど、私は「もっとやってもっと描いてーーーー」と応援しちゃう読者(^^ゞ ダダ漏れの愛情を眺めているだけで幸せになる。


●大島弓子「グーグーだって猫である」(6)(角川書店)

 完結巻。突然の完結に嫌な予感がしたのだけど、やはり最終章の内容は・・・・・・・・・・。

 懐かしくて、第一巻から6冊全部を読み返す。
 大島弓子の猫物の漫画は好きだ。「綿の国星」シリーズは可愛くて美しいファンタジーだったし、愛猫サヴァとの一人&一匹の生活を描いた作品群は、時間がゆったり流れるあたたかさに満ち満ちていた。
 グーグーのシリーズでは、大島弓子はサヴァを描いていた時までの猫の擬人化をやめ、猫そのものの顔を描くようになった。
 一巻途中から、登場猫はグーグーだけではなくなっていく。サヴァの死、マンションから一戸建てへの転居などを経て、大島弓子の中では様々な変化が生じているようだ。どんどんどんどんどんどん増えていく増え続けていく猫・・・・・・・・・・・。

 ここ10年以上、マンション生活をしている私は、猫とは縁の無い生活をしているけれど、もともと猫は大・大・大好きなので、愛する猫たちとの生活をひたすら描くこの作品は楽しい。サヴァまでの頃と違い、人間&愛猫の生活を描くのではなく、人間&多頭飼いされる猫や飼われているわけではない野良猫たちの生活を描くこの作品。こんなふうに猫が集団でいる環境をあまり知らないので、描かれる猫生活がすごく新鮮だ。

 3巻で大島弓子は庭付きの一戸建ての家に引っ越す。そのあたりからもう、捨て猫を見かけると捕獲して可愛がっていた生活は、歯止めがきかなくなっていったようで、3巻までは作者とグーグーを中心とする家猫ちゃん達との生活を描く作品であったものが、野良ネコちゃん達とのバタバタした交流を描く物にどんどんかわっていく。野良ネコとの接し方に関する価値観は様々なので、大島弓子漫画は好きだが大島弓子の猫との接し方は好きではないという読者も結構多いかもしれない。
 私は、これだけ沢山の野良ちゃん達にも愛情を爆発させている大島弓子がすごいなあと思いながら読んでいたけれど(*^_^*) ただ、5巻終わりから6巻にかけては、野良ネコ捕獲に関しても従来とは流れが違ってきているのかな、と感じたりもした。可愛くて可愛くて愛するがゆえに拾ったというよりも、成り行きで猫を庭から家に入れて過ごすようになったという流れで家猫となった猫が増えてきているような。エピソードが多すぎて端折られている部分も多いから、可愛さや愛情を全部描き切れていないということなのかもしれないけれど・・・・・・・どうなんだろう?

 後半、作者の関心は庭を行き来する野良ちゃん達にかなりシフトしているようではあるけれど、さりげなく描かれる家猫ちゃん達のだらだらした姿の絵を眺めるのは楽しい。テーブルの上にあがって寝込んでいる家猫ちゃん達。作者が夜中にベッドで寝ている時にベット上にそれぞれ場所を確保してくっついて寝ている家猫ちゃん達。新入り猫ちゃんが入ってきたりすると1階入り口でぞろりと並んでその姿を眺めたりにおいをかいだりする家猫ちゃん達。
 最後の最後になって、ベッドから締め出されちゃった猫ちゃん達が・・・・の描写はかなり寂しかったけれど。グーグーと作者さんが二人っきりでベッドに一緒に寝る姿が描かれても、その寂しさは消え去らないなあ。

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2011年9月 2日 (金)

夏に読んだ漫画

 6月から8月に読んだ漫画の感想。
 今の東京では9月も夏かもしれないけれど、9月は三原順、遠藤淑子と多くなりそうなので、感想文は分けます。


●吉田秋生「海街diary」(4)

 現在連載中の漫画の中では一番お気に入りの作品♪
 鎌倉を舞台にした、吉田秋生バージョンの若草物語。
 前巻までの感想はこことかココとか。

 長女・幸の不倫の恋は、彼のアメリカ行きをきっかけに終わりを迎え、姉の恋と苦しみを憂う四女・すずはその心配をきっかけにサッカー仲間の風太との距離を縮める。次女・佳乃はやや不安定な部分も抱える姉とは方向性の異なるしっかり者ぶりが金を扱う仕事に生かされるようになっており、上司との関係も接近しているがこちらはまだ恋には程遠い。三女・千佳はかわらぬマイペースぶり。男を見る目に関しては二人の姉よりも確かなものをもっているけれど、姉達も妹もまだそのことには気づいてない(笑)看護師の幸は4月から終末医療に携わることになっており、4巻の中で、どうやら胃がんであることが示唆されている患者との関わりが5巻で描かれていくのかなとも思われる。
 延々と話を続けられそうな物語ではあるけれど、このタイプの日常物語はあまり長くなるとだれて質も落ちたりもするし、多分、すずの残り一年の中学校生活を軸にして、三人の姉達の今後も描かれていくのだろうなと想像中。物語上では残り一年でも、連載自体は一年では終わらないんだろうけれど。

 すずのサッカー仲間である、片足を切断して義足でプレイを続ける多田裕也が今後どうなっていくのか。すずの今後の進路決定にあたって大きな影響をもたらすことになるのかな。決して経済的に恵まれた家庭に育っているわけではない裕也は、伸び続ける身長、合わなくなってリハビリを一からやり直さなければならない事態が今後も予測される中、どのような進路を選ぶことになるか。まだ直接は描かれてないけれど、監督のヤスは相当に悩んでいる真っ最中であると思われる。すずが高校入学後も女子サッカーを続けていくかどうかを早い時期から気にかけているヤスなのだから、すず以上に将来を期待されていたにもかかわらずすずよりも大きな苦労を抱え込んでしまっている裕也の進路について、あれこれ調べたり悩んだりしていないなんてありえない。
 裕也は、もっと背が伸びて筋肉ががっちりついてくれば、フィジカルにも強くなって今後選手としてやっていける可能性が広がったりするんだろうか。でも、現在は少年体型だし、今までのように技術に依存しているままだと・・・・・・・例えば高校でなんらかの奨学金を得てサッカーを続けるとかは可能だったりするんだろうか?そして、裕也の場合、経済的援助がなんらかの形で得られないと、サッカーを続けるのはかなり苦しいものがあるのではなかろうか。父の遺産があるすずとは条件がかなり違うはず。、

 いずれは結婚やら進学やらで解体されることになるであろう四姉妹の生活は、誰があの家に残ることになるのかな、といった点も気になる。
 私は、幸だろうなと想像しているんだけど(笑)
 佳乃は庭木の世話なんて絶対出来ないだろうし。千佳もその点ではやや危ういし。アフロ店長の勤め先はチェーン店であるように見えるので、転勤もありうるかもしれないと考えると、千佳があの家から出ていくという可能性は一番高そう。

 風太はいい男になってきてる♪
 吉田秋生の漫画って、思春期の男の子の性的な好奇心をかなりしっかり描くものだったりするけれど、このシリーズにおける思春期少年達は、吉田秋生漫画の登場人物とは思えないほどに皆、純情だなあ(^^ゞ

 ところで話がそれますが。
 私、マサの言動が大いに気になっているんですが。
 
 「ラヴァーズ・キス」の中で、緒方篤志は藤井朋章がこれからずっと抱え続けていく秘密について、
「おれ、絶対言いません。誓います。おれ鷺沢高尾さんが好きなんです。あの人の名にかけて誓います」
ときっぱり言い放つ。けれど。
 「海街diary」のマサは、稲村ケ崎から入水自殺をはかった人間がいることを知っている。
「うちの兄きから聞いたんや。兄きの高校の先輩で稲村ケ崎で自殺未遂しよった人おるんやって」

 ・・・・・・・・・兄きのお喋り((+_+))

 篤志は、入水自殺をはかった人間が誰であるかを名前を伏せておけば、噂になることもなく誓いは守れると解釈したのか? 藤井先輩は病院に運び込まれたわけでもないので、名前がわかるはずもないと楽観してたのか? 

 でも、マサの話を聞いたすずは、その話を聞いて、藤井先輩を思い浮かべているわけだし。
 そりゃ、すずは藤井先輩の自殺未遂話を吹聴するような子ではないとはいえ。

 簡単に喋るなよ。秘密ってのは、結構あっけない形で漏れていくものなのよ(^^ゞ秘密にすると誓ったのであれば、あくまでも絶対に誰にもひとかけらも喋ってはいけないのよ。

 といった形で、1996年に読んだ篤志の決意宣言に関し、2011年になって疑念を抱く私なのであった(^^ゞ

 さて、9月発売号にまた海街diaryの次のお話が載るとやらで、その展開も楽しみ☆


●川原泉「コメットさんにも華がある」(白泉社)

 前巻「レナード現象には理由がある」は、何かしっくりこないような感があったのだけど、今作「コメットさんにも華がある」は、前巻に比べると少女漫画色が高くなっていたためか、すんなり楽しむことが出来た。前作は同性愛者やロリコンの描き方で、なんとなく、もやもやっとしてしまう部分があったんで、すんなり物語世界に没入しきれなかったんだ・・・・・・・。

 川原泉の漫画で一番好きなのは「笑う大天使」「架空の森」「森には真理が落ちている」「フロイト1/2」あたり。
 娘も川原泉好き。私は川原漫画を全部所有していたわけではなかったんだけど、ある日本棚を見たら、私が買っていないはずの川原泉漫画があった。全部持っていたい娘が、我が家に無い物を買い足したのであった^^; でも、同世代の漫画仲間にせっせと布教を試みるもなかなか実らないらしい。そんなこともあって、反抗期のはずの娘は何故かハハをオタク話仲間としてそれなりに大事にしている^^;;;

 ちなみに、娘の感想。
 「コメットさんには華がある」の男の子が、他の作品の男の子と違い、髪がベタでないことが強く印象に残ったらしい。
「他は皆、ベタ髪なのにーーーーーー!!!!」
なんじゃそりゃ? オタクな娘は漫画を読んだ後、原画展も見に行っていた・・・・・


●田村由美「7 SEEDS」(20)

 船内から発射待ちの核ミサイルを止めるために奮闘を続ける夏Aチームの二人および夏Bチーム。

 恋する乙女まつりちゃん、可愛い♪
 元気なくりくり嫌いじゃないという涼は可愛い♪ でも彼が一番好きなのは女ではなく安居なんだよなあ・・・・・。
 ナツの慎重さ、臆病な部分をプラス評価する安居。ひとやま超えれば、嵐みたいに、先生的な素質を見せるようになるか?
 前にも言ったけれど、蝉丸のナツへの態度はひどすぎると思う。ナッちゃんはいじられるのは嫌いなんだから、逆効果だよねえ???? 蝉丸がナツを気に入っていることはよくわかるけれど、このままずるずるとナツと蝉丸がくっつくなんていうのは嫌だな。
 蛍ちゃんは何故、落ちこぼれ組とされる夏Bチーム所属なのだろう?他の六人はそれなりに納得いくんだけど。彼女は、最初っからお役立ち娘だよねえ・・・・・?

 安居はまつりや蝉丸との触れ合いの中で、安居は嵐との触れ合いの中で、大きくかわってきてはいる。しかし、作者はこの二人を許すような方向で物語をすすめていくんだろうか?涼の花やハルに対しての殺人未遂行為、安居の花に対する暴行、安居が十六夜さんを安易に殺したこと。やらかしてしまったこれらの行為は、そう簡単に許されてはいかんと思うんだけど。ああでも、BASARAの浅葱なんかを見ていると、作者は結局は夏Aチームが皆救われるような方向でストーリーをすすめていくのかな、という気もする。

 物語の終着駅が佐渡になるんだとしたら、夏Aと秋・春・冬の混合チームは、突然の雨季で住まいを流されるなどして離散といった物語がまたあったりするのかな。このまま大人数で固定のままだとしたら、二つの大チームの出会いが対立をもたらすといった展開もありうるのか。もう20冊も出てるのに、先が全然読めない。


●美内すずえ「ガラスの仮面」(47)(白泉社)

 感想はココに。

●聖千秋「KECHOMPA」(2)(集英社)

 1巻が出た時に書いた感想はコレ
 そんなわけで、おそるおそるといった気分で2巻を買ったのだけど、2巻は面白かった!これなら読み続けられそう。

 2巻で初登場の堂上刑事がいいキャラだ。リリコの片思い相手のニィよりもこっちの方が絶対いい(笑)
 堂上の登場でこの漫画の少女漫画度が高まったような感じ。絵は相変わらず見づらいけれど。リリコVSイカ焼きは、少女漫画度の高い良い並びだ。一応シロートなんだけどカンと人脈がバリバリのリリコ&現場大好きなちょっと外れ者の刑事で今後ガンガンすすめていってほしい。


●高橋留美子「高橋留美子劇場 運命の鳥」(小学館)

 ビッグコミックオリジナルに年1のペースで掲載される読み切り漫画のシリーズ「高橋留美子劇場」をまとめた物。2006年から今年2011年までに発表された「ポジティブ・クッキング」「事件の現場」「しあわせリスト」「運命の鳥」「年甲斐もなく」「隣家の悩み」の6本。

 高橋留美子って、あれだけ売れっ子でのほほんと日常生活を過ごしていくゆとりなんてなさそうに見えるのに、中年の男性の悲哀の感情とか、中年の女性の評価されない苛立ちとか、そうしたちょっとした描写が妙にリアル。でもリアルすぎずにほどよく夢が見られるような後味の物語に仕上がってる。長期連載よりも、こうした短編の方が、高橋留美子の巧さがよくわかる。


●荒川弘「銀の匙 Silver Spoon」(1)(小学館)

 大蝦夷農業高校に入学した八軒勇吾。都会育ちには驚愕の事態が多すぎて戸惑いとバタバタと奮闘の日々。
 エッセイ漫画「百姓貴族」が面白かったので、ストーリー紹介を見る限りではこれは多分この作者の得意エリアでの作品? 1巻をとりあえず買ってみた。これなら次巻以降も楽しめそうかな。ただ、作者にとって近すぎるエリアの物語であるがゆえか、設定勝負になってしまっていてストーリー漫画としてはまだこなれてなくて「百姓貴族」の方が面白いような気もするというのも正直なところかな。


●川原由美子「ななめの音楽」(1)(朝日新聞出版)

 うーーーーん、私的にはハズレかな。次の作品に期待。2巻は買わない。

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2011年8月16日 (火)

「小説キャンディ・キャンディFINAL STORY」---キャンディが辿り着いた所

 名木田恵子「小説キャンディ・キャンディFINAL STORY」(翔伝社)を図書館で借りて読んだ。

 小説版が出てるらしいというのはなんとなく知ってたのだけど、小説版というのは所詮は亜流、ベースは漫画版でそれ以外の物に手を出す必要はなかろうと思い、読むのは見送っていた。
 が、今年になって、噂話のような形で、
「いがらしゆみこの頭の中では違うかもしれないけれど、水木杏子の頭の中では、キャンディ・キャンディってのはどうも、あの後アルバートさんじゃなくてテリィとハッピーエンドになるらしいよ?そのへんが小説版でうかがえるんだとか」
といった話を聞いた。

 えーーーー!? テリィと?
 それはぜひ読まなくては!!!!!!

(そんなわけで、以下の文章は、ネタバレ遠慮することなく超満載!状態となります。)
 最後の最後にキャンディは丘の上の王子さまに行き着いた。胸を焦がす熱愛ではないけれど、穏やかさと信頼と安心の伴う笑顔でもって共に過ごせる人に行き着いた。
 漫画のキャンディ・キャンディの終わり方というのは、そういうものなんだと思っていた。
 綺麗な終わり方ではあるのだけど、切なくもあった。胸が焼きつきそうな、身が焦がれてしまいそうな、あのテリィとの関係は結局戻らぬまま終わってしまうのか?テリィとの恋は、辛いけれども幸せだった過去の思い出としてしまいこまれることになるのか?
 でも、両想いなのに? テリィは絶対に絶対に、スザナをキャンディ以上に愛せるようになれるはずないのに?
 スザナを切り捨てる選択はエゴイスティックに思えるかもしれないけれど、決して忘れえぬ人の生きた女性の面影を鮮烈に胸に抱えながら≪自分の幸せよりも君を選んだ≫と言ってスザナのそばに居続けるってのは、スザナに対する侮辱にも見えた。それでもテリィを離せないスザナという女が、私は嫌で嫌でたまらなかった。

 漫画じゃなくて書籍なら、図書館で読めるかな?
 検索をかけてみたら。あったーーーーーーーー!!!!! すぐに予約手続き。今年刊行の本だけど誰も予約者がいなかったので、すぐに借りられた!


◆小説版の経緯

 あとがきに書かれた出版経緯を整理してみるとこんな感じ。

1)1978年に水木杏子名義で講談社から「小説キャンディ・キャンディ」出版。
 全3巻の3部構成。3巻目を手紙形式として漫画で描き残したことを書き足す。

2)1990年に名木田恵子名義で講談社から小説版復刊。

3)1996年、原作者と漫画家の間で著作権をめぐる争いとなる。

4)2003年にブッキング(現・復刊ドットコム)から、漫画絵の無い形で小説版の復刊。

5)2006年に祥伝社から小説版を文庫で復刊の話。
 小説版を全面的に書き直すことを決める。
 当初は文庫の予定だったが、上下巻の単行本での出版となる。

 2006年から2010年までの経緯はよくわからないけれど、図書館で借りてきた「小説キャンディ・キャンディFINAL STORY」は2010年11月の刊行と書かれている。


◆全体の構成

Prologue
 全8頁の短い物。
 大人になっているキャンディが過去の回想を始める。

I章
 普通に小説形式。キャンディの幼かった日から、アンソニーの事故死まで。

II章
 大人になったキャンディの回想を織り交ぜつつ、大体は普通に小説形式。
 回想はキャンディのイギリス行きから始まる。
 セントポール学院をキャンディが去るまで。

III章
 大人になったキャンディの回想と、キャンディが様々な人達とやりとりする手紙、様々な人からキャンディ宛てに送られた手紙が組み合わされた形。
 時系列に添った小説形式ではない。
 もともとの原作を未読の読者には、読みづらいかもしれないが、多分、まっさらの状態でこの本を読む人なんてほとんどいないだろうからどうでもいい類のことであろうと思われる(^^ゞ
 III章の大部分は、キャンディがまだウィリアム大おじさまの正体を知らなかった時期。
 漫画には登場しない決定的なエピソードでしめくくられる。

epilogue
 III章に続き、キャンディが書く手紙とキャンディが受け取る手紙が軸。
 ラスト2頁で、回想を終えた大人のキャンディの現在が綴られる。


◆謎の「あのひと」

 キャンディの回想の中で≪あのひと≫といった形で言及される人が何度も登場する。

 名木田恵子は、≪あのひと≫とは誰のことなのかを最後まではっきりとは語ることなく、曖昧にしたまま物語を終結させる。
 あのひとが誰かをきちんと描くには長い物語が必要だが、あのひとが誰であるかを明かすことは長年の読者の夢を奪いかねないようなものでもあるので、謎は謎として曖昧なままにとどめて想像の中で楽しんでほしいと、名木田恵子は語る。

 キャンディが最終的にどういった形で幸せになったのかについて、名木田恵子(水木杏子)といがらしゆみこの間で意見の食い違いがあったしら?


◆「あのひと」は誰か

 キャンディは、恋愛という部分においては誰とハッピーな結末を迎えることになったのか。
 かつて全8冊の漫画を読んだ時、キャンディ・キャンディという物語はキャンディが丘の上の王子さまと出会うところからはじまり、丘の上の王子さまとの思いがけない再会でしめくくられるという形で綺麗にまとまって終わっていたので、切ない未練を抱えつつも、キャンディはアルバートさんと今後の人生を共に過ごしていくことになるんだろうと思っていた。

 だから、この小説版を読み始めた時、「あのひと」ってのが登場してきた時、それはアルバートさんのことなんだろうと無邪気に思っていた。

 でも、少し読み進めてから違和感が。
 これってアルバートさんじゃないんでは?テリィのことなんでは?

 ≪あのひと≫ってのが誰なんだろうというのを気にしながら、もう一度読み返し始めた。

・プロローグ

 数年前に≪あのひと≫がロンドンの蚤の市でキャンディのために油絵を買って贈ったエピソードが綴られる。たくさんの古びた油絵から、≪あのひと≫は一目で、その絵がポニーの家なのだとわかったのだと言う。どうやら、≪あのひと≫は、ポニーの家の描かれた物に、強い思いを感じる人であるらしい。

 アルバートさんもテリィも、ポニーの家を知っている。
 現在のキャンディは、≪あのひと≫とロンドンにいるらしい。

 この段階では、≪あのひと≫が誰であるかについては、まだ決定打といえるものは出てはいないように思えたので、従来の感覚のままさらりと読み流した。


・II章冒頭

 プロローグに書かれていたポニー先生の病気の件に再度触れられる。

 現在キャンディがいるのはロンドン。ポニー先生がいるのは海の向こう。
 看病に行きたくてもすぐには行けない遠い地にポニー先生はいるらしい。

 ふとひっかかりをおぼえた。
 アルバートさんはウィリアム大伯父さまだ。大金持ちの実業家だ。
 キャンディがロンドンからアメリカに渡るためのお金をぽんと渡すのなんて、難なくできる人のはずだ。でもどうやらキャンディは、ポニー先生のもとに行きたいと言いだせないような事情にあるらしい。

 ≪あのひと≫はアルバートさんではないのではなかろうか?
 アルバートさんではないとすると・・・・・・残る可能性は一人っきゃいない。

 ロンドンに移り住んだテリィというのも、キャンディのアメリカ行きを援助できないほどに貧乏であろうはずはないけれど。二人が共に暮らしているんだとしたら、簡単には離れることが出来ないような関係やらしがらみやらがあちこちに生じてくるように思える。一方、アルバートさんであれば、そういったしがらみは容易に断ち切ることが出来る人であるように思える。

 アルバートさんであれば、キャンディがアメリカに行きたいという気持ちをにおわせていたら、容易に察して「行っておいで」と送り出しそうでもあるけれど。
 テリィの場合。キャンディの気持ちは察するものの、ほんの短い時間でも彼女と海を隔てて離れているということが耐えられないといった心情に陥るのではないかといったことも想像しうる。テリィってのは結構そういった身勝手な人である。恋愛というのはエゴイスティックなものでもある。二人の関係が復活するんだとしたら・・・・・・・テリィのエゴイスティックな面も合わせて復活するのではないかというのは想像にかたくない。


・III章冒頭148頁

 イギリスからアメリカに戻る旅についてキャンディが語った時、≪あのひと≫は最初は大笑いしていたが、ふいに真剣な表情になって彼女を抱きしめ、「よく無事だった」と言った、と。

 その旅について、そういう激しい反応をする≪あのひと≫ってのは、彼でしかありえないだろう。アルバートさんであれば、もっと穏やかな反応をするはず。


・III章冒頭(149頁)

 現在のキャンディが使う象嵌細工の宝石箱は≪あのひと≫の家に代々伝わる物。

 代々・・・・・・・アードレー家もグランチェスター家も、立派な家柄なので、どっちの可能性もある。ミスリードの一つ?


・III章197頁

 現在のキャンディが住む家の書斎の壁は革表紙の書籍で埋まっている。
 シェークスピア全集、イギリス、フランスの文学書、医学に関する書籍。

 医学書を読むのはキャンディよね。ではその他の本は・・・・・・・・・。
 アルバートさんの書斎にシェークスピアがあってもおかしくはないけれど、書斎に並ぶ本のカテゴリーとして真っ先にシェークスピアがあがってくるというのはやはり・・・・・・そういうことなんだろうな。


・III章238頁

 キャンディが幸せになり器。
「ある日、とうとう壊れてしまった。ステアとのつながりが切れたような気がして、打ちひしがれていたが、それを後日、いつも簡単にあのひとは修理してくれた」

 いつも簡単に修理ってのは、彼のイメージにはいまひとつそぐわないかな。もう一人の人のイメージの方が似合うような気はする。
 でも、ここまでにもう決定打がいくつもあるしね・・・・・・・・。


・III章269-277頁 テリィのハムレットの舞台

 完全に≪その後≫のエピソードである。
 テリィの母エレノア・ベーカーからキャンディに「ハムレット」のチケットが送られてくる。再起したテリィが主演する舞台。
 しかし、キャンディは、招待券を送ってくれたことを彼女に感謝して受け取りつつも、観劇はしないという手紙を彼女に送る。
 そしてキャンディは、決して投函することのないテリィあての手紙を書き、テリィの再起を祝う。


・III章278-283頁

 ≪その後≫のエピソードが続く。
 スザナ・マーロウからのキャンディへの手紙。
 そしてキャンディはその手紙を受け取った何年も後に、スザナの死亡記事を見かける。スザナはナレーターの仕事をしながら戯曲も書き、テリィとはずっと共に暮らしていた。しかし、二人は婚約はしていたものの結婚はしなかった。
 スザナの死の一年半後、イニシャルのみで名前は書いていない短い手紙がキャンディ宛てに送られてくる。
「ぼくはなにも変わっていない」
という主旨のメール。

 そしてIII章は終わる。

 このIII章の最後を描くためにこの小説版はずっと綴られてきたらしい。
 ということはやはり、随所で登場する誰だか明かされない≪あのひと≫というのは、彼以外ではありえないようだ。
 キャンディと彼の間にある、消えることのない燃えさかる想いは、ずっとずっと続いている。
 別の人との間に築かれた兄妹のような優しい関係が、その燃えさかる想いによって生じる傷を消していくということはどうやらなかったらしい。


・エピローグ327頁

 「生きていても、会うことがかなわない運命があることも知った」
と、キャンディは、投函することの無いアンソニー宛ての手紙の中で語る。
 アンソニーへの想いは、熱く燃え盛るも優しい思い出として彼女の心の中に着地したけれど、≪あなたと似たひと≫への想いにはまだ着地点は無いまま。


・エピローグ最終頁

 アンソニー宛ての手紙を書いた後にも、どうやら様々なことがあったらしく、現在のキャンディは≪あのひと≫と幸せに暮らしている。


◆まとめ

 ファンによる同人小説といった形ではなく、原作者である水木杏子(名木田恵子)によって、こうした物語が描かれた。≪あのひと≫が誰であるかの明言は伏せられているけれど、こんなふうに一つ一つのエピソードを注意して拾っていくと、あのひとというのは彼以外の人ではありえない。

 ずっと昔に思い込んでいた物語の結末が、何十年も経た後で、こんなふうな形でひっくり返されることになるとは思わなかった。勿論、名木田恵子ではなくいがらしゆみこの中ではまた違った物語があるのだろうけれど、私はこの物語を受け入れたい。キャンディは幾多の苦しみを経た後に、テリィと幸せに暮らすようになりました、という物語。終わったということが受け入れ難かったキャンディとテリィの強い関係がその後も強く熱くずっと続いていたという物語が綴られたことを喜びたい。

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2011年7月26日 (火)

ガラかめ47巻ーーーついにやってきた両想いの日

 美内すずえ「ガラスの仮面」47巻を買ってきた。

 オビは、熱心なファンに、≪ガラかめってのはネタ漫画ですよ!≫と訴える内容のものになってますなあ。ファンが自虐でネタ漫画扱いするのはともかく、公式サイドでそんなことしていいものなんだろうか?速水真澄Twitterも、キャラクターの性格が反映されていない、出来の悪い文章だけど、クリアケースの付録にする等の形で公式で推しているし、原作者も面白がっている。そんなふうにネタ漫画扱いしながら、白泉社や原作者は、原作が完結しない事態について
「まあまあ、そんなにきりきりしないで。所詮はネタ漫画なんだからさぁぁぁ」
という方向に持っていこうとしているのかしら。そんなふうに勘ぐってしまう。

 私はガラかめをネタ扱いして大笑いはするけれど、それは熱心なファンだからこそでもあるので、創り手側から熱心さを嘲笑われる事態がつくられているのはあまり愉快ではないなあ。

 と、愚痴を最初に書いてしまったけれど。

 とりあえず祝杯あげましょうかね。
 速水真澄が北島マヤへの愛を自覚したのは17巻だった。
 それから、30冊目にして、ようやく、二人がお互いの想いを確認し合う日がやってきたのね(笑)
 実際に流れている年月も三十年くらいたっているような気がするのは、なんなんだよ、と思うけれど(^^ゞ

 今回は、女優北島マヤを描く場面はほとんど無く、ただただ、恋愛面のみで流れていった巻だった。女優・北島マヤについては、桜小路くんの一真についてマヤが、どんな一真でも自分は受けてみせると決意している部分くらいかなあ。マヤの演技がどんなふうに動いても、姫川歌子や姫川亜弓がどんとうけとめるというエピソードはあったけれど、マヤの側がそういう立場に立つってのは新鮮といえば新鮮。でもきっと大した意味は無く、受ける側にまわった女優・北島マヤについて描かれることはどうせほとんど無いんだろうなあ・・・・・・。美内すずえが三十年以上描いているのは、熱血漫画ではあるけれど演劇漫画ではないからなあ。学園での一人芝居や「真夏の夜の夢」なんかでは、舞台を創ることの面白さを結構描けてたとも思うんだけど、最近はそういった点では本当にダメダメな印象。「紅天女」は作中では幻の名作にとどめておくべきだった。描いてしまうから、紅天女という物語が薄っぺらく見えてしまうことになり、作者の力量の減退も重なって、演劇漫画としての側面ではつまらなさが増してしまってる。

 まあそんなわけなので、演劇漫画としてどうこうというよりは、長年ウォッチを続けてきたじれったい恋愛がどう動くのか、に関しての方が、興味が動いてしまうのだ。だからこそ、いろいろと楽しかったこの47巻。この後はまたしばらくつまんないうざったい展開になりそうでもあるけれど。 

 以下、恋愛部分について、今回の巻で目についた部分の感想なども。
 なお、雑誌連載中の感想については、ここココにも書いたりしてます。

●速水真澄さんのお金でドレスアップしたマヤの姿

 薔薇のイヤリング、薔薇のネックレス、薔薇のブレスレット、薔薇飾りのついた靴、薔薇模様入りハンドバッグ。そして、胸にかすかに谷間が見えるようなドレス(笑) 
 雑誌で見た時、ドレスの胸のふち部分にも、薔薇柄のスクリーントーンを使っているのではなかろうか??と疑って必死に目をこらしたんだけどよくわらからなかった。コミックスだと当然、黒くつぶれてしまってて全然わからない。

●抱擁中の睦言加筆

 速水さんがマヤに対し、いつから自分がイヤでなくなったのかと問う場面、マヤが答える場面が追加されている。
 あくまでも、変化の状況についてはうやむやに答えるマヤ。あまり追及しない速水さん。

 あんまりちゃんとした受け答えになってないんだけど、幸せだからいいのか!?

●名前呼びに関する加筆

 速水さんがマヤに、これからはチビちゃんとは違った呼び方にすると宣言し、呼ばれたマヤが真っ赤になった後。
 速水さんがマヤに対して、これからは自分のことを冷血漢、ゲジゲジ、冷血仕事虫、その他の呼び方をするなと言う場面が追加されてる。

 ・・・・・・・・はあ、そうですか。それ以外に語り合わなきゃいけないことが山ほどあるだろうに、この二人は。幸せそうにじゃれてるからいいのか?


●伊豆の別荘デートお誘いへのマヤの反応

 雑誌でマヤが「はい」と答えた時、疑った人は多かったはずだ。
 マヤは、その別荘で二人きりで過ごすということの意味をわかっているのか?
 ただ、海辺で蟹と戯れながら文字通りあははうふふとはしゃいで過ごすだけのつもりでOKしたんじゃないのか?

 コミックスのマヤは理解していた!!!!!(笑)
 「きっとその夜は帰れない!」と気付いて真っ赤になりつつ、自分も一人で行くと返事をしてた。

 どこで何を覚えたのか、ちゃんと成人した女の子してるのねえ・・・・・・・・・。

●婚約解消前触れ

 雑誌では速水さんはまず紫織さん個人と対決してたかと思うんだけど、コミックスではまだそこまでは描かれず。かわりに、結婚式の詳細な計画について語る水城さんに対し、速水さんがキャンセルの場合の事態を想定するように指示をする場面がはさまれる。

 それにしても、派手な結婚式のご予定だこと。
 引出物に二人のイニシャル入りのバカラのワイングラスという計画に関しては、いかにも成り上がり者的な品の悪さに目を疑った(笑)

●蛇足のおまけ

 最後に、蛇足の感想。

 少女物において、王道展開ではあるが私の逆ツボをついてしまうという設定がいくつかありまして・・・・・・・・・。

 相手の男性を意識はしているものの、その感情が恋愛感情であるとは自覚できてはいない状態のヒロイン。
 男性はヒロインへの恋愛感情を意識はしているものの、ヒロインから想われることに関しては諦めの感情がある。
 そんな状況の中、その男性のもとに、婚約者なる女性が出現。
 その婚約者の登場により、ヒロインは男性への想いを自覚しはじめる。

 よくある展開。でも私、この展開が大・大・大嫌い!!!!
 婚約が成立してしまったら、それを解消する過程の中で、男性のキャラクターの魅力を保持し続けるのって難しい。他に好きな女がいるなら、テキトーな婚約なんかすんな!一人でい続けろよ、片想い抱えてただ苦悩し続けてろよ、と思っちゃう。
 なのに、結構、好きな作品の中でこれがよくあるのだわ(涙)
 ガラスの仮面もそうだし、「花咲ける青少年」もそうだったし、実写版「美少女戦士セーラームーン」もそうだったなあ。

 速水さんは婚約なんてすべきじゃなかった。彼は選択が許される立場にいたのだから、拒絶すべきだった。
 ストーリー上、どうしても婚約させなきゃいけないんなら、あくまでも、ビジネスライクに彼は動くべきだった。下手に誠意なんてもんにこだわるから、相手の女はその優しさを愛情と勘違いしてしまった。そうした状況からの婚約解消は、どう動かそうとも男をつまらない性格に見せてしまう。

 時をもとに戻せるのであれば、何十年か巻き戻して、紫織との婚約話はなかったものにしてほしいわ、全く・・・・・・・。

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2011年7月14日 (木)

SWANモスクワ編読んだーーー2011年夏号

 土曜日にスワンマガジン最新号を買ってきた♪

 土曜朝10時に、最寄駅近くで絶対に買わなきゃいけないものがあって1時間近く並んでたら、暑さのせいか気持悪くなってしまい、
「すぐに座りたい!! 家まで歩いたら10分。電車の椅子ならもっとはやく座れる。よし、電車に乗っちゃえーーーー」
と考え、スワンマガジンを発売している本屋への電車移動。スワンマガジンおよび雑誌「ミュージカル」7月号を購入。

 今回は「アグリー・ダック」公演前の、登場人物達(真澄、レオン、リリアナ、セルゲイエフ先生)の思いを描く回。

 ネタバレ全開で、展開メモと感想を書き連ねておきます。


◆表紙のレオン&真澄は「ドン・キホーテ」のバジルとキトリ

(感想)

 この二人って、稽古場ではドンキを踊るけれど、公演で踊ったことはまだ無いですよね?ニューヨークではバランシンのシンフォニーを公演で踊らないと決まった時点で、ドンキを踊る予定もとんでしまっただろうし。
 でも、この二人の組み合わせで是非見たい公演演目かっていうとちょっと違うんだなあ^^;;;
 ふと思ったんだけど、バジルとキトリって、レオンとラリサでも結構合うんじゃあ?

◆ボリショイの公演「スパルタクス」で踊るラリサとマクシム

 マクシムがスパルタクス、ラリサがスパルタクスの妻フリーギアを踊っている。
 アグリー・ダック公演直前ではあるが、真澄とレオンはラリサの招きに応じて客席で観ている。
 フリーギアのラリサの踊りはなめらかで優しい。パートナーが愛するマクシムだからラリサの表現が広がったのだろうか、と考え続ける真澄。ひるがえって自分は、レオンへの気持を感じまいとし続ける日々の中で一体彼とどんなアグリー・ダックを踊る気だったのだろうと思い悩む真澄。
 公演は大成功。マクシムは反体制的なダンス・グループへの所属さえなければソリストではなくとうにプリンシパルだろうに、と、人々に噂されている。

(感想)
 オディールや火の鳥のような強い踊りが得意で、レ・シルフィードではあまり印象に残らなかったとされているラリサ。どうやら、踊って魅力的に見える役の幅が広がってきている模様?

 客席にすわるレオンの格好はバレエを観る者としては結構ラフ。

 スパルタクスって、真澄がはじめて見たレオンの踊りだったけれど、そういったことへの追想はなかったりするのね^^;;;;;


◆ナターシャおばさんの家での夕食会。

 リリアナとその家族、ナターシャおばさまと夫のワシーリィ、真澄とレオン、セルゲイエフ先生、ラリサとマクシム。
 料理したのは、リリアナのママとナターシャおばさん。
 リリアナの弟ミハイル(愛称ミーシャ)はモスクワバレエ学校の6年生。真澄がはじめて会った時のふわふわした天使っぽさがほとんどなくなり、いかにもレオンと気が合いそうな小生意気なガキンチョに成長してる。
 マクシモフ氏が真澄とレオンに、ドイツに戻った後の計画、踊りたい作品の方向性について尋ねる。
 真澄は、まずは自分のアグリー・ダックを成功させて、その後のことは二人で自然に考えていきたいと答える。
 レオンは、自分に合った作品を持つバレエ団、有能な振付家のいるバレエ団に興味があり、その希望を真澄に強いるつもりはない、真澄とこの先もパートナーを組むかどうかはまったくの白紙であると答える。真澄は衝撃を受ける。マクシモフ氏はパートナー固定化しないことは可能性の幅を広げると肯定、セルゲイエフ先生は思い悩むような表情で沈黙。ラリサは「暗にパートナーシップの解消を示唆する言い方よね」と、青ざめている真澄の隣で喧々した口調でレオンに突っかかる。レオンはラリサとマクシムの関係について、ラリサがいつも優位に立ってるのはバランスの悪さのあるパートナーシップでないかとやり返し、ラリサは怒るがマクシムが笑いながらなだめ、リリアナはラリサとレオンが仲良しで羨ましいと笑う。セルゲイエフ先生は、「人が深いレベルで決めている事を変えることは・・・・決して出来ない」「自分に出来る事があるとしたらそれを受け入れる事だけだ。受け入れさえすれば現実は違って見えるようにもなる」と語り、リリアナの父母が、理解しあえる友人や家族と時間を分かち合う事への悦びを語る。
 リリアナが突然、皆への愛と感謝と自分の幸せを語りだす。

(感想)

 ラリサとレオン、確かに仲がいい(笑)
 真澄とレオンよりも、よほど性格的相性がよいんではなかろうか。レオンみたいに壁をつくりたがる男に対しては、ラリサのようにずんずん突っ込んだ喋り方をする人の方がよいんではなかろうか。
 真澄はレオンに対して遠慮しすぎ。殻にとじこもりすぎ。セルゲイエフ先生に対して素直になれるほどにはレオンに対して心を開き切れてない。

 親しい家での夕食会とはいえ、レオンの格好はかなりラフ。もこもこしたセーター。ディナーや劇場行きのための服を彼はモスクワに持ってきてないのか?でもまあ、マクシムもラフな格好だし、マクシモフ氏もちょっとラフだからいいのか?女性陣はそれなりにお洒落してるし、ミーシャは正装っぽいんだけど?

 真澄が当然のようにレオンとのパートナーシップ継続を考えていることを皆の前で表明しているにもかかわらず、そんな真澄の思惑を勝手な思い込みと落とすかのごとく、皆の前でパートナーシップ継続については白紙と言明するレオンって、ひどすぎない?そこまでひどいことをしてもいいんだとレオンに思わせるほどのことを真澄はしているの?ラリサがちくちくやりたくなるのももっともだ。ラリサ、もっとやってくれればいいのに。

 そうした身勝手さも含めて、モスクワ編のレオンはプライベート面での魅力を発揮しきれず、以前の連載時に発揮してた魅力に頼り過ぎている部分が大きいと思う。アルマとの関係について真澄に言葉できちんと否定しないで真澄との関係について真澄一人のせいにしているのもマイナスポイントだ。この先、彼は挽回できるのか? ニューヨーク編での彼は、自分から動けずにいることの馬鹿さ加減について、もっと自省できていたのに。

 セルゲイエフ先生の語りは、誰に対する言明なのだろう?真澄?

 真澄は主人公ではあるけれど、反省・自省しなければいけないのは、常に真澄なのだろうか????
 レオンがもっとプライベートな感情においても素直だったら。先生が二年前に真澄のパートナーとして踊ることを厭わなかったら。

 天使リリアナが皆にもたらす幸福な空気により、死亡フラグが思い切り示唆されてる・・・


◆ディナーに招かれた客が帰る前に眠ってしまったリリアナ。

 セルゲイエフ先生がリリアナをお姫様抱っこして上の寝室へ連れて行く。

 真澄&レオンと別れた後、
「そんなにバランス悪いかなァ、私達」
とふとつぶやいて、マクシムを喜ばせているラリサ(笑)リリアナの天使っぷりに幸せな気分になっているマクシムだが、ラリサはリリアナの天使然とした姿に不吉な予感をおぼえている。


◆目をさましたリリアナとセルゲイエフ先生の会話。

 リリアナは、先生が何故、2年前のアグリー・ダックで真澄のパートナーとして踊らなかったのかを尋ねる。リリアナは、それが自分のせいなのではないかと気にしている。もし先生があの時に真澄と踊っていたら、真澄はもっと早く、あの公演でつかみかけていた光をつかんでいたのではないか、先生を真澄にとられたくないといった嫉妬心をあの時感じていたことに先生は気づいていたのではないか。ずっとそれを気にしていたリリアナ。 先生はリリアナに語る。あの時の真澄に必要だったのは、自分の助けではなく、真澄自身の力で変化を乗り越える強さであり、今の彼女だからこそ真澄はアグリー・ダックを踊れる。何よりもあの時の真澄は、真のパートナーと出逢うべき時がきていた。だから踊らなかったのだ、と。
「先生は真澄を心から愛しているんです・・・・ね」
「・・・・・・大切な教え子としてね」

(感想)

 ずるい男、セルゲイエフ先生(笑)
 一方の真実を語ることで、もう一方の真実を伏せております。
 真澄から踊りのパートナーという側面だけで見られて、プライベートな側面では相手にされていないという事態に悶々とした気持を抱えていたのは、レオンだけではないのにね^^;
 でも、そのへんのセルゲイエフ先生の葛藤にうっすら気づいてはいるリリアナ。

 2年前にセルゲイエフ先生が真澄と踊っていたら、真澄はアグリー・ダックを踊ったことを失敗と評されることはなかったかもしれないのに、ってのは、読者の抱く不思議ではありますよね。
 真澄を失敗させるというストーリー条件があったがゆえに、パートナーはレオンであっても先生であってもならなかったんだろうけれど・・・・・彼らの力量をマイナスに見せる描写は避けなければいけなかったんだろうけれど・・・・・・


◆ホテルへの帰り道を歩く真澄とレオン。

 マクシモフ氏が声をかけ、真澄に、すぐにドイツに戻るのではなくモスクワにとどまって、創作バレエをつくりたい、教えたいという思いを伝える。感謝の気持を伝えつつ、今はアグリー・ダックで頭がいっぱいで他のことは考えられないから考える時間がほしいと答える真澄。
 待っていたレオンの所に戻った真澄がそれを伝えると、レオンはマクシモフ氏の提案を受けろと言い、自分はドイツに戻ったらそのままハンブルクに行き、プリンシパルとして迎えたいというハンブルク・バレエ団のオファーを受けたいと考えていると言う。真澄がモスクワに残るのなら、自分は気がねなくハンブルクへ行ける、と。2年前に自分についてシュツットガルトに来た真澄に責任を感じてすぐには言いだせなかったけれど、自分達二人はそもそも何の約束もしてないし、アグリー・ダックが終わったら自分の事だけ考えてもいいのではないか、と。
 三日後が自分達の初日なのに、何故このタイミングでそれを言いだすのかと尋ねる真澄に、レオンは今夜だからこそ話すのだと答える。この先、どう動くかは真澄次第だ、と。
 ホテルのエレベーターの前で別れる二人。一人でエレベーターに乗ったレオンは、それまで浮かべてた笑顔から一変した、落ち込んだ表情に。
(俺だってこうして他人を簡単に心の外に閉め出してしまう事が出来るのに、どうして真澄だけを責められる・・・・・・!?)
(こんな出口のない感情の波から自分を解放するには、もう・・・・俺達、お互いを手離すしかないだろう・・・・・!)
 真澄は震えている。これは自分が招いた結果であると。自分がいまだにレオンに対して、自分に課した何かの枷をはずせないでいる、そのことこそがこの事態を招いた、と。


(感想)

 なるほど、レオンは、真澄の心から自分が閉め出されているのだとずっと思い煩い続けてきてたわけなのね(笑)

 このレオンの言いように対して思うことは二つ。

1)約束はあったと解釈してたんだけどな。強引に、なかったことにしようとしているレオンの口調はひどすぎる。雪のアンカレッジの夜に語り明かした話は、約束と言わずになんというの? 「オレがいる」「オレがみつけた、オレにしかできない」「(「私と踊るせいであなたまで世間からはじかれるかもしれないわ」と言われて)かまわないさ」ここまで彼が明言したからこそ、真澄はパートナーとしてのレオンをがっちり信じる二年間を過ごしたというのに?

 こんな男、ふられたって自業自得、と思ってしまうくらいには。モスクワ編のレオンは、レオンの男としての魅力を出せてないと思う。可愛いというよりは不甲斐ないというレベル。


2)でも、お互いのプライベートな感情はともかく、二人が個々のダンサーとしての資質をパートナーシップとは別の部分から見つめ直すことは必要な作業であるとは思う。

 レオンにとって真澄は、これ以上は無いと思える理想的なパートナーなのかもしれない。
 でも、真澄にとってレオンは本当にそうなのか!? 彼は本当に、真澄のダンサーとしての資質を生かす踊り手なのか?
 というのは、長らくの疑問だ。
 物語性が低めでダンサー自身の持ち味が軸になってくるような踊りにおける真澄を生かすにあたって、レオンは得難いパートナーであるのかもしれない。真澄の技術をより高くみせるための技量を持ち、かつ、真澄を自由な感覚で踊らせる。
 シンフォニーや牧神の午後において、相手がレオンでなければ出せない味わいを真澄は出した。でも、古典バレエのダンサーとしての真澄を生かすためにレオンはどうなんだろう?
 レ・シルフィードにおいて、真澄を最大限に生かすパートナーはレオンかもしれないと、セルゲイエフ先生や葵さんは思った。
 でも、稽古場で幾度も踊っているドンキは? バジルはレオンに最も合っている古典バレエの役の一つとして数えられるだろうけれど、真澄にとってのキトリは必ずしもそうではない。
 オデットとオディールの解釈において個性を発揮した真澄。おそらくはジゼルにおいても、京極小夜子の解釈の影響を受けながらも独自のジゼルをつくりあげていくであろう真澄。古典バレエのダンサーとしての真澄に合った役って、内因表現を重視するその種の役であると描写されていた。「春の祭典」の後にも言われてた通り、真澄はドラマティックバレエを踊るべき人だとも思う。でも、そうなると、レオンは果たして、本当に、合うダンサーなのか? ダンスールノーブルとしての資質もモダンダンサーとしての色香も兼ね備えていて、かつ、真澄の技術を最大限引き出す技術力を備えているセルゲイエフ先生の方が合ってたりはしない?(笑)

 今のままのレオンの個性って、ノイマイヤーの振付の個性に本当に合致するのだろうか? 私はノイマイヤーのバレエをそんなに沢山観ているわけではないけれど、ノイマイヤーのバレエって、物語性が高くて個々の踊り手が内因表現を高めていく作業をかなり必要としていくというような作風に思えたんだけど。

 真澄の成長の度合いにいろいろ思う所はあるらしいが、レオンだって、もっと試行錯誤を繰り返していいはずだと思う。
 まあとりあえずは、アグリー・ダックにおけるレオンの踊りっぷりを拝見させていただくことにしましょう(笑)それが見られるのは来年1月くらいかしら???

 ところで、未だにこんな感情のままとどまってる二人。
 一応、モスクワに来る前に日本で、ジゼルとアルブレヒトを踊って成功しているはずなんだけど、一体どんなジゼルとアルブレヒトだったんだか? アルブレヒトって全くレオン向きではないように思えてならないだけに、疑問がつのる。現在彼がもやもやと抱えている恋愛感情を乗り越えれば、もしかしたら面白いアルブレヒトが出来てくるかもしれないけれど?
 SWANという物語の主役はあくまで聖真澄であって、他のダンサーの役表現における成長の部分はほとんど描かれないけれど、パートナーシップというものにこだわった物語を続けるのであれば、真澄だけでなくレオンがバレエと対峙する姿ってのももっと見せてほしいと思うのだ。パートナーシップを恋愛感情の附属物として描くにとどまるのではなく。

◆新装版のアグリー・ダッグの初日。リリアナ主演日。

 公演直前のリリアナの楽屋を訪れる真澄。
 リリアナはひそかに、真澄に頼みたい事があった。
 今夜の舞台を最後まできちんと踊りたいが、もしも舞台上で自分に何かがあったらその時は真澄に代わって踊ってほしい、と。
 具合が悪いのならセルゲイエフ先生かマクシモフ氏にすぐに言わないとと心配する真澄に、リリアナは笑顔で言う。自分にはいつも代役がいてくれないので、今回だけは真澄に頼んでおきたい、と。
 約束に応じた真澄に、リリアナは笑顔で続ける。
「なんだか真澄にいろんな事約束してもらったけど、もう・・・・・これが最後だから」
 真澄は、「誰にも言わないで」というリリアナの言葉に、以前誰かに同じ事を言われた事がある、と、ふと思い出している。
 公演が終わったらリリアナに、今までリリアナがしてくれていたように心を開いて、セルゲイエフ先生やレオンのことを何もかも正直に話したいと思う真澄。
 真澄のモノローグ。
(私は・・・・・なぜもっと早く気づかなかったのか。あの人が出した・・・・・最後のサインに」
 そして、リリアナの踊るアグリー・ダックが始まり、次号に続く。

(感想)

 真澄がリリアナを「あの人」と表現するのは、真澄とリリアナの関係性とは合致しないような気もする。ここで言う「あの人」というのは、メインで言及しているのはリリアナのことではあるが、実は他の人について語っているということでもあるのだろうか?
 「誰にも言わないで」と言った人とも関係してくると解釈するのが正しいのかな?

 となると、真澄がレオンに対してつくってしまっている壁、真澄が封印している感情というのは、やはり、ルシィへの想いとかかわってくるということなんだろうか。そのあたりがきっちり描かれていくことになるのか?

 なんにせよ、リリアナがこの公演を最後までつとめられないというフラグは立ってしまったようだ。以前、ラリサが、リリアナには代役がいないということも語っていたし、代役問題というのが次回多分、大きくクローズアップされてきてしまうんだろう。

 願わくば。真澄とレオンの本公演をリリアナが観ることがかないますように。真澄が完成されたアグリー・ダックを踊ることを一番待っていたのは、リリアナなのだから。セルゲイエフ先生やマクシモフ氏以上の情熱を持って、彼女は待ち続けていたのだから。

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2011年6月 2日 (木)

再読二冊ーーーDie Energie 5.2☆11.8、原発ジプシー

 現実を見つめるのが辛くて、3/11以降、原発関係の本の再読は避けていたのだけど、それでもなんとなく読み返したのが以下二冊。三原順は、3/20の三原順の命日に。原発ジプシーは、地震で落っこちた本棚の中身を整理してたら出てきたのでなんとなく。「死ぬまで読み返すこともないかもしれないなあ」と思ってた本を窓のそばのカラーボックスにぶちこんであって、それが散乱したのだけど・・・・・・・・原発ジプシーは再読価値あるだろうなあ、と、娘の目の届きそうな位置に置きかえた。1999年に東海村の核燃施設での事故があった時、報道を見ながら「70年代後半と、結局、現場労働者の作業環境って変わってないんだなあ」と愕然としながら「原発ジプシー」の内容を思い出したものだった・・・・・・・。


●三原順「Die Energie 5.2☆11.8」

 少女漫画誌「Lala」に掲載され、白泉社コミック「夕暮れの旅」に収録された漫画。現在は三原順傑作選 (’80s) (白泉社文庫) で入手することができる。

 三原順という漫画家は多分、原子力発電の問題について、放射性物質への漠然とした恐怖感からはいっていったのだろうなと思う。「X-Day」という作品では、落下・飛散したソ連の原子炉衛星のかけらがある登場人物の人生に重大な影響を与えるエピソードがあり、ここにも放射性物質への恐怖の思いが顔を出している。
 しかし、三原順の漫画における描写は、山岸涼子の反原発漫画「パエトーン」のようにシンプルに「原発ってこわいんですよ!皆、知ってた?知って知って」と訴える調子にはならない。反原発について考え続け、その難しさや限界についても考え続け、その脳内試行錯誤の過程が、作中のやりとりに出てくる。

 主人公ルドルフは、電力会社に勤めている男性。20代後半もしくは30代前半あたり?
 アパート(もしくはマンション?)の隣には、看護婦の仕事をしているロザリンという若い女性が住んでいる。ルドルフの親友のダドリーがこのロザリンを気に入っていることもあり、三人でよく食事に行って歓談するような関係。ちなみに、恋愛関係ではない。ロザリンは、自分は趣味が悪いと自嘲しつつルドルフに惹かれているんだけど片想い。ルドルフには想い人がいるらしいことが「X-Day」や「踊りたいのに」といった別作品の中で簡単に触れられる。ダドリーは女性に関しては恋愛と友情はきっちり分ける男で、ロザリンはダドリーにとっては信頼できる友人のカテゴリーに入ってるから、男女の関係にはならない。こんな形で、少女漫画にありがちな≪恋愛≫のような甘い関係性を除き、語られる台詞は台詞そのものの意味を読み取るべき物語になっている。

 原発の近辺の住民である13歳の少女が白血病で入院してきたことがきっかけで、ロザリンは、それまでおぼろげに怖いものとだけ感じていた原発に対し、積極的に反対という意思を持つようになり、環境保護団体にも加入。
 物語のメインストーリーは、ルドルフの勤める電力会社がしかけられたテロ事件での攻防で、ロザリンはメインストーリーとは離れた位置にいるキャラではあるのだが。
 ルドルフとロザリンの意見のやりとりは、様々な示唆にとんでいる。

 ロザリンは優しい良い人だ。だからこそといった典型的な反応をする。
 彼女に対するルドルフの反応は辛辣だ。

「目下の所、君達がつくる事を許そうと思っている発電所はどういう種類のものなんだい?何ならば・・・電気を受けとる代わりに失ってもいいと思っているんだい?」

「何の問題もない方法などありはしないんだ。だから・・・もし君がそれを覚悟の上でAなら我慢するがBは認めないと言うならばそれもいいだろう。だが何も譲りたくないが分け前は欲しいと言うならオレは何も話したくない」

「何もせずに生きてゆける程、自然は優しくはないし何もせずに死を待つほどには人間の寿命は短くもない」

「ああいうタイプは見ているだけでいい!」

 ルドルフは、原発の危険性について知っている。知っていながらも、自らの職に邁進し、「オレは加害者でいい!ただの加害者でいい」と言う。そこに至るには様々な葛藤がある。わかっていてそのスタンスを受け入れた人は、自分が何を切り捨てたかも勿論わかっている。切り捨てる際には勿論、痛みの感情だってある。

 そんな彼に対し、反原発を正論として叩きつけることには意味はない。

 ではどんな言葉だったら、彼に通じる言葉になるんだろう。
 その困難さを自問自答しない限り、現在の反原発も結局は今だけのブームで終わってしまうんだろうなと思ってしまう。スリーマイルの後のように。チェルノブイリの後のように。

 おそらくは三原順は反原発にシンパシーがある人だったのだろうと受け取れるけれど、反原発の運動の方法論については、非常にリアリティのある厳しい眼差しを持った人であった。


●堀江邦夫「原発ジプシー」(講談社文庫)

 学生時代に、原発関係の本はあれこれ読んだが、一番インパクトがあったのはこの本だった。読み返してみたら、あちこちに鉛筆で線をひいて書き込みをしている^^;

 ルポライターであることを伏せて三つの原発(福島第一原発も)で仕事した記録。手ごろな分量で、文章は扇情的ではなく、淡々と日々の作業について記録していて、非常に読みやすい。
 特に反原発を強くうたった文章では書かれていない。勿論、強い感情があったからこそ現場に潜入して報道したいとなったのだろうけれど。ルポの中の堀江氏は、現場監督から最初は、やっていけるのか?と不安に思われるようなよわっちい感じに見えたそうだけど、若い作業員として周囲の作業員と普通にコミュニケーションをはかりながら、真面目に熱心に労働をしていく。

 原発って、もっと機械化がばっちりすすんだ物かというイメージがあったのに、現場というのは3Kどころか何Kだろうと愕然とするほどに原始的な大変な労働に支えられていた世界なんだな、ということが非常によくわかる。それでも著者はこのルポを出版した後、大勢の同僚から「あんたが体験したことなんてまだましな方だ」と言われたのだと、文庫版あとがきで明かしている。頑張って潜入ルポを書いたつもりだったけれど報道しきれていなかった恥ずかしさ、そしてそれ以上に、これよりも過酷な労働が普通なのだということを大勢の作業員から言われたという事実に対する震撼。淡々とした言葉で綴られるその震撼が、じわじわと読み手のこちらにもうつってくる。


●あれこれ

 三月上旬までは、原発に関して、メディアが偏った報道しかしないこと、ほしい情報は自分から得ようと努力しないと得られないことにいらいらしていた。
 今は新聞もテレビもインターネットも連日、原発原発原発原発。

 ・・・・・・・・・こんな理由で原発の危険性に関する報道が増える状況がくることを望んでいたわけじゃない。

 原発の安全性なんて信じてなかったし、原発が低コストであるとされるのも数値操作だと思ってたし、原発が地球温暖化を防ぐクリーンエネルギーであるといった宣伝にいたっては、唖然とするばかりだったけれど。
 事故さえ起こらなければ、原発賛成の立場の人の言うままでもいいかもしれない、なんていう気分もここ数年なきにしもあらずだった。「原発ジプシー」を読んだ自分がそれを思うという事態に憤りと羞恥心をおぼえつつも。解決策が無い廃棄物問題を後の世代にただただまわしていくだけの状況を、わかってて見過ごすのはエゴイスティックだと思いつつも。
 周囲に対し原発に関してはほとんど口にしなくなった。ただ、娘に対してだけ、私が実は基本的には原発反対の立場であることは吹きこんだ^^; そのせいかどうか知らないけれど、小学校時代の娘は六ヶ所村についてなんかいろいろ調べまくり、アースデーフェスティバルに連れてった際も、六ヶ所村についての運動をしているNGOの展示をえらく熱心に読んでた・・・・・・・・。

 放射性物質の危険性の診断については、昔も今もよくわからない。
 「Die Energie 5.2☆11.8」でダドリーが言う状況は、今もそのまま。
「反対派は少量の放射線でも危険の可能性はあると言い、すると推進派は許容量以上の被曝者を連れて来て言う訳だよ。『見ろ、彼は生きている』」
こんな状況で、何をどう判断したらいいの?
 安全性を気にし始めたら、それこそきりがないくらい、沢山のことを気にしなきゃいけない。食品添加物、農薬、合成洗剤と水、食品への放射線照射、遺伝子操作、日付偽装、その他いろいろ。そして、気になることをすべて気にし続けながら商品を選ぼうと思ったら、とんでもなく高い商品を買い続けていかなきゃいけない。どこかで切って諦めないと、貧乏人にはついていけない。

 ただ気になるのは、チェルノブイリ後の、こどもの甲状腺がん発病の増加。
 そして、日本において、水俣病などの公害病や薬害エイズ問題について、国が原因と発病の関連を認めるのがきわめて遅かったという点。

 これらを考え合わせれば、「ただちに危険なレベルではない」を鵜呑みにするのはあまりにも危険だということを、感覚の部分で反応する人が多いのは当たり前。

 自分についてはどうでもいいんだ。もう十分生きたし、いろいろな失敗や挫折はしたけれど結構幸せに生きてきたと思うし、「発がんの怖れ?どうせ私は既にがん患者だし、どーでもいい」といった感じ。ただ、人生これからのこどもがいるので、自分自身の生に関する開き直りをそのままこどもにあてはめるわけにはいかず、途方にくれてしまうのだった・・・・・・
 五年後十年後には、日本の若年層にがん患者や白血病患者が増えるんだろうか?
 多分私はそれを確認することなく自分ががんでいなくなっちゃうと思うんだけど、その前にやっておかなきゃいけないことはいろいろあるような気はする。

 人生あと残りちょっとなんだ。一歩、もう一歩、今までとは違った方向にいってみないといけないなあ・・・・・・・。チェルノブイリの後の状況を考えると、今ある反原発の動きに対するバックラッシュも近い将来はじまってくるだろうと予想されるし。

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2011年5月16日 (月)

春に読んだ漫画

 今月読む漫画は、あとは、海街diary目当てで購入予定の月刊誌「Flowers」だけのはずなので、3月以降に読んだ漫画の感想をここでまとめておく。


●遠藤淑子「なごみクラブ」(3)(竹書房)

 なごみクラブという名のホストクラブを舞台とする連作短編漫画の三冊目。
 ホストクラブといっても、いかがわしかったりあやしかったりする場所ではない。
居酒屋よりももうちょっと、程度の、ささやかな贅沢価格で訪れると、静かで優しい時間がもらえる場所なのだ。10代の娘に読ませても全然問題の無い、健全なあたたかさ。

 連作が続く中で、なごみクラブ以外の場所にも準レギュラーのような登場人物が増えてきている。

 鬱によるひきこもりを脱出しようとコンビニでバイトを始めた男の子。コンビニ初日で巻き込まれた事件にたまたまなごみクラブのマネージャーが居合わせたために、すっかりマネージャーとは顔なじみに。

 ホストのユウヤの妹の由加ちゃん。難病を経て普通の生活に戻ってきている彼女の「ちょっと痛くてもすごく痛くても病気がつらいのはみんな同じなんだよ」はすごくいい言葉だ。これをいつもすんなり言える、思える人間でありたいな。

 電車で年取った方が乗ってきても誰も席を譲らないかと思いきや、いっせいに同じようなタイミングで中腰になった人が沢山いたり、とか。

 本当にちょっとしたエピソードが胸にしみいり、幸せで切なくて何故か泣けてきてしまう物語。

 すごくいい作品なのに、近所の本屋ってば、発売日の翌日に店員さんに尋ねたらバックヤードからこの本を出してきた・・・・・・。店頭に並べずに数日したら返本するつもりだったのか? 娘に話したら、
「あの本屋はマイナー漫画ではいつもそれやってるよ」
と断言してた。確かに、1巻を買った時も店頭じゃなくバックヤードから持ってきたんだよな・・・・・。ひどいわ。


●杉山小弥花「明治失業忍法帖」(1)(秋田書店)

 太平洋戦後の混乱期を舞台にした「当世白浪気質」の次にはどんな作品が来るのかなあ、と、楽しみにしていた。
 前作が好きだった人はこの作品も面白く読めると思う♪ 2巻以降も買い続ける♪

 今回の作品の舞台は、明治維新でかつての価値観がひっくり返っている時代。
 設定はいろいろ違えども、ストーリーの骨子の部分は前作と共通しているともいえるかな。激動の時代の中で生きる、真っ直ぐな気質の少女、および、時代の変質に疲れて斜に構えてしまってる青年の話。その青年が、少女とのかかわりの中に安らぎを見出しながら、少しずつ自分をかえていく。世間知らずで周囲と衝突することも多い角ばった少女は、青年とのかかわりの中で、柔らかさを身につけていくが、人としての根源の部分は変わらずあり続ける。

 ミステリーボニータで連載中の漫画。
 秋田書店の漫画だけど、作風はなんとなく白泉社テイスト。


○こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社)全3巻

 「夕凪の街 桜の国」の作者が、太平洋戦争の時代の呉を舞台にした作品を描いたと聞き、図書館で借りてきて読んだ。(娘も読んでた)

 ヒロインのすずは、広島から呉に嫁いでいった女性。
 ちょっと不器用だけどおっとりとした雰囲気と真面目さを持つ彼女は、夫とも夫の家族ともなごやかな関係。
 日々の生活の衣食住、繰り返す日常のあれこれが丁寧に描かれている。穏やかで幸せな日々が、しのびよる戦争、次第に近づいてきて、激しくなっていく米軍の攻撃の中で少しずつ少しずつかわっていく。以前とかわってしまったそれが日々の日常となっていく。その中で人々は、おっとりと日常の日々を過ごしていく。だが、以前とはやはり違っている。
 声高に反戦をうたうわけではないし、悲劇として戦争を描くわけではない。しのびこんできて日々をかえてしまう、日常としての戦争を細やかに描く物語。


●山口美由紀「天空聖龍~イノセント・ドラゴン~」(9)(白泉社)

 完結巻。

 サニンは大切なカナンに対してしてはならぬことをしてしまったので、彼に救いが訪れる結末にはならないだろうとは思っていたけれど、それにしても救いが無さ過ぎたような気も。山口美由紀の漫画って、短編では容赦ない暗さのものもあるけれど、長編は結構甘めだったりするので、カナンやサニンの迎えた結末は少し意外だった。そして、カナンのお相手であるはずの、そして主役の一人でもあるはずのラムカの印象度が弱まる・・・・・。

 でだしは壮大な印象だったのに、なんとなく尻すぼみで終わってしまったかな。


●樹なつみ「花咲ける青少年 特別編1」(白泉社)

 絵柄は本編の頃と大きくかわってないので、絵柄で脱落させられるということにはならない。もう少し詳しく言うと、男性キャラについては、本編の頃の絵柄に近づけるべく、作者が非常に気合いを入れていることがよくわかる。特に、美しいユージィンについては(笑)それに比べると、花鹿はあまり気合い入れて描いてもらえてないような気がする。この作者、本当に、女性キャラに対する興味が薄いんだな(苦笑)

 この巻には三つの話が収録されている。

 一つ目は、本編の後の物語。結婚式に招かれてラギネイを訪れる登場人物たち。花鹿と立人がラブラブ。立人が実に幸せそうだけど、花鹿は単なる恋する女の子と堕してしまって覇気を失っている。イザックが玲莉につかまることはなかったことがわかり安堵した(笑)
 二つ目はユージィンの過去話。現在の、花鹿と共にいる彼の幸せそうな姿もちらりと。 三つめはカールの過去話。

 ユージィンは今も昔も変わらないけれど、片恋なのに今は実に幸せそうで何より。

 朱鷺色三角シリーズでも、こんなふうな特別編をやってくれればいいのにねえ・・・零と蕾の(進展していなさそうな)その後とか、すごく読みたいじゃないですか。

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2011年4月18日 (月)

出崎アニメの思い出

 アニメ監督の出崎統さんが亡くなった・・・・・・・・。
 良質なアニメ作品を制作してアニメ界をひっぱってきていた方がまた一人。とても寂しい。

 代表作としてあげられるのは、「あしたのジョー」「エースをねらえ!」「宝島」あたり?

 私は「おにいさまへ・・・」が一番好き(#^^#) 原作・池田理代子。原作も相当にトンデモだったけれど、このアニメはエピソードをいろいろ改変してさらにトンデモ少女漫画の極めつけになってる!!! でも、初回放映は、日曜夜6時だった(笑)仕事から帰って疲れたーーーーとへたりこみながらテレビつけたら、これを放映してたんだわ。おかげで、その後しばらく、楽しみで楽しみで、でも録画失敗が怖くて、日曜夜に外出できなくなったものだった。

 「エースをねらえ!」も結構好き。スポ根物だけど、少女漫画だから雰囲気が華麗なんですもの。お蝶夫人の縦ロールとか、お蝶夫人の弾くピアノとか、テニスシーンの止め絵や音楽の入り方とか。

 「あしたのジョー」は「2」の重苦しさがものすごく好き。今だったら放送禁止になるんでないかとおぼしきアジア蔑視描写もあるけれど^^;;; 友の死や友の病にとりつかれた暗い苦しさにおおいつくされた雰囲気が好きだったな。でも、私は繊細な女の子なので、ボクシングシーンが苦手で録画はしなかった^^; 

 「宝島」はシルバーがかっこよかったねえ♪
 「ガンバの冒険」は、こども向けアニメでここまで死や絶望や恐怖を描くんだーー、と、その妥協の無さが好きだったな。

 と、好きだったという話だけ連ねたいのだけど。
 実は、アニメの「ベルサイユのばら」は超苦手だったのだ^^; アニメ版ベルばらは前半が長浜忠夫氏で後半を出崎氏がひっぱっていたが、この後半ベルばら演出が・・・・・・合わなかった。

 私が出崎アニメに感じていた特色は≪オトコの美学≫だ。
 男たるものは・・・・・みたいなことを熱く語り描くことへの強いモチベーションを画面から何度も感じさせられた。男の強さ、弱さ、でもそれらをすべてひっくるめた骨っぽいかっこよさ。
 逆に、女性というのは、出崎さんにとっては、異世界なんだろうな、とは思った。
 異世界であるからこそ、型にのっとった形で描いている。作者の共感、熱く描きたいものは女性キャラにはあまり無いんだろうなとよく思った。
 女性キャラを描く時ならではの型。乙女行為のあれこれの型。女の子同士のきゃぴきゃぴした可愛らしい友情。可愛いヒロインと対比される位置にいる誇り高き女性は縦ロール。
 「エースをねらえ!」はそんな感じで、作者からは異世界という形で描かれていたなあと思う。
 「おにいさまへ・・・」は、異世界の極致。出崎さんにとってはおそらくはさっぱり理解できないであろう少女間のドロドロを、耽美アニメという形式にのっとって異世界空間として突き放して描き上げる。共感はそこには全くないが、突き放して描いているからこその完成度の高い異世界がそこにはあった。

 そのあたりで、中途半端になっちゃったなあ、という印象だったのが「ベルサイユのばら」後半部分演出。
 原作の「ベルサイユのばら」は、男装の麗人であり軍人として生涯を終えることになったオスカルという人の愛と苦しさを描く物語であり、「オスカル様素敵♪」と乙女ハートでオスカル様を見つめて楽しむ少女読者も多かったけれど、ぎりぎりの環境でもがき苦しみ生き方を探すオスカルという一女性に対し深い共感をこめて作品を読んでいた女性読者も多かったと思う。そして、出崎さんは多分、後者の読者とは理解し合うことはない人だったんだろうな、と受けとめている。出崎さんは、オスカルという一人の人間の苦しみに対してもあまり理解をせず、作中でオスカルを、男世界に翻弄される一人の女という位置にかためてしまった。原作でオスカルに年下扱いされるアランはアニメでは存在感あるオトコとなっていて、オスカルが知らない世界への導き手でもあった。原作では忠実な従者の位置であったアンドレも、男という性であるがゆえに、アニメでは必要以上にオスカルを導くといった位置に置かれることになった。きっと、出崎さんの中の男の部分が、原作におけるオスカルとアンドレの関係、原作におけるオスカルとアランの関係を許容できなかったんだなあ、と思った。ベルばらは人間物語であって、「エースをねらえ」や「おにいさまへ」のように、乙女ワールド異世界として突き放して描くということが出来なかったがゆえに、原作ワールドと出崎アニメの間で強烈な齟齬がうまれてしまったんだろうな、と。

 といった違和感もあったりしたけれど、そうした不満もひっくるめて、出崎アニメという世界は面白い、忘れがたい世界なのであった。

 娘が小さい頃、劇場版とっとこハム太郎を、スタッフ名は全然把握せぬままに見に行った。
 映画を見終わってから、娘にプログラムを見せてもらったら、監督のところに出崎統という名があった。
「なるほどーーーーーーー!!!! わかるわかる! うん、あれは出崎演出だ!」
と、なんだかものすごく納得してしまったりしたものだった。 なんか、オトコの美学にひたっているような浪花節的なネズミのキャラが出てきてたんだもの^^;

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